第46話 彼らのことが、少しわかった
ああ、本当に狭い浴室だった。あれじゃ体格のいい男の人が入れないよ。
宿屋の主人が用意してくれた浴衣を着て、濡れた髪をタオルでがしがし乾かしながら、ふと、宿屋を包み込む花の香りが、柑橘系に変わっていることに気がついた。
レニーが言ってた、時間とともに変化する香りというのは、これの事らしい。さっきの甘い花の香りよりはマシだけど、個人的には、もうちょっと酸っぱい匂いのほうがいいかもな。これはまるでオレンジジュースだ。
さて、一応しっかりと体は洗ってきたし、これでレニーも、匂いの解決法を教えてくれるだろう。
ん? あれ? 見間違いかな、幻覚かな……? レニーがいる部屋の扉に、執事服をまとった見覚えのある男が、腕を組んでもたれている。
「よう」
……よう、じゃないよ。どうなってるんだ。
「ウェルクライム・ハイド、王都に残ったんじゃなかったのか? いつ来たんだ?」
「二分くらい前だ。お前がクセークセーってうるせーから、レニーが俺を
「呼ばれたって……僕が臭いのことを彼女に話したのは、二十分くらい前のことだよ。そんな短時間で、きみは王都からどうやって、ここまで……」
「ハッハッハ、いい顔するじゃねーか。俺が怖いか?」
不審がる僕に、彼は八重歯が見えるくらい意地悪く嗤った。
「ああ怖いさ。たった二十分でここまで走れる、きみの忠誠心がな。馬にどれほどの無茶をさせたんだ」
「はあ? 馬なんか使ってねーよ。俺はレニーに召喚されたんだ」
「召喚……? レニーが、きみを?」
なんだ、この感じ、なんだかすごく、懐かしいような、胸が高揚するような……召喚って言葉が、こんなにも僕の感情を揺さぶるなんて。どうしてだ?
「そ、その召喚というのは、もしかして、召喚師から喚ばれて、きみがそれに応えれば、召喚師のもとに呼び出されるというヤツだろ?」
「なんだお前、覚えてんじゃねーか。てっきり、何もかも忘れちまったのかと思ってたぜ」
ウェルクライムは、扉にもたれていた背中を離すと、足元に置いていた革鞄を片手に、こっちへ歩いてきた。
ぶつかるのもアレだから、よけてやると、
「臭いの件、なんとかしてやるよ」
「え? きみが?」
ウェルクライムは振り向かずに、食堂のある方へと歩いていってしまった。
僕が呆然としている間に、コーヒーの香りが、あっという間に宿屋を支配する。
いろいろな匂いで麻痺しかけていた嗅覚が、ブラックコーヒーの鋭い刺激で戻ってきた。
「コーヒーに、こんな効果が……」
僕は扉の向こうにいるであろう彼女に、声をかけた。
「レニー、対処してくれてありがとう。きみの執事とも、仲直りできそうだよ」
……あれ? なんだよ、また無視か?
「お嬢様なら、食堂ですよ」
「え?」
「わたくしは部屋でお片づけをしております。まだしばらくかかりそうなので、お先に向かって差し上げてくださいませ」
お片づけって……ああ、レニーがマッサージオイルまみれで床を歩きまわっちゃったから、掃除してるんだな。
「ごめんよ。きみの仕事が増えたのって、僕のせいでもあるよな」
「ふふ、いつもの事ですから、どうかお気になさらないでください」
いつもなんだ……本当に大変だね。
部屋で仕事するメイドに、励ましの言葉を送ってから、僕も食堂へ向かうことにした。広くはないけど狭くもない宿内は、変な増築の仕方をしたのか、半端な段差があったり、見通しの悪い曲がり角があったり。それでもこの廊下は食堂へ行ける一本道だから、迷うことはなかった。
豊かなコーヒーの香りに包まれて、そこには男性も女性も、まだまだ現役のお年寄りまで、ゆったりしたひとときを過ごしていた。ちゃっかり厨房を仕切っているのは、あのウェルクライム。そして、コーヒーの宣伝をしているのは、レニーだった。彼女の会社で開発した新商品らしい。
手の冷たいメイドが、綺麗な小袋に詰めた試供品を、お客に手渡している。
な、なにを、してるんだよ、きみたちは……。
「おいおい、お兄さん」
僕の腕を軽く小突く者が。いつの間にか宿屋の主人が、となりに来ていた。
「いい
「え? う、うちのが、何か、言いましたか?」
「ハハハ。うちの食堂には女っ気がねえってダメ出しを、ちょっとな」
ええ? 僕は、これでいいと思うけどな。荒削りの木彫りの椅子とかテーブルとか、奥の方に飾ってあるイノシシ親子の剥製とか。かっこいいじゃんか。
……あ、たしかに、女性の中には嫌がる人もいるかな。椅子だって形が悪くて、重そうだし。気軽にひょいと座れる場所かって言われたら、うーん、なんとも言えないな。親子で殺されたイノシシたちも、よくよく考えたら気の毒だしな。
レニーいわく、男性が多く集まる場所は無骨さもウリになるが、客には女性もいるのだし、宿を整えているおかみさんのセンスも良いのだから、おかみさんの意見も参考にして明るい色彩を取り入れたり、花など飾っていきましょう、とのこと。
「あの
「そう言えば、この辺りには他に宿屋がありませんね」
「だろ? だから俺も油断してたなーって、思ったわけだよ」
宿屋の主人の話を聞いているうちに、僕は……少しだけど、ほっとしたんだ。
どうして安堵したか、だって? 今まで、レニーたちのことは得体の知れない悪党にしか思えなかったんだ。目下の者を侮辱したり、僕の友達一家を蹴落としたりさ。
けど、今回の事で少しわかったんだ。
彼女たちの生き方っていうのが。
彼女たちの周囲には、いつも絶好の機会が転がっていて、それを余すことなく拾い上げ、利用し、活用し、周りにも影響を広げてゆく。試行錯誤から始まって、傾向や結果をじっくり観察し、それから、失敗すらも勝機につなげようとする。
僕なんかと結婚になっても、ふてくされてる暇なんて、彼女には存在しないんだな。
……彼女となら、アイリスを取り戻せる日が、近くなるかもしれない。そう思えた。
まあ、だからって彼らのクソ悪い性格は評価できないし、僕のことも利用価値があるから手を組んでいるだけで用が済んだら再び攻撃対象になるんだろうがな。
「あんたたちは、王都から来たんだろ? あの娘さんを見ていると、きっと噂のベラドンナ・レニーもこんな感じなのかなって思うよ。いや、もしかしたら、ベラドンナ・レニーを超えてるかもな。お兄さん、頑張って幸せにしてやりなよ。きっと二人でなら、今よりもっと大金持ちになれるさ」
「ハハハ……」
彼女こそが正真正銘の、ベラドンナ・レニーなんですが。僕と結婚したから、レニーは宿の名簿に、レニー・シュミットって書いたんだな。
クラウス・ベラドンナじゃなくてよかったよ。僕まで極悪人みたいな響きじゃないか。
「おい、お前も突っ立ってないで飲めよ」
え?
ウェルクライムが、安っぽいマグカップをテーブルにすとんと置いた。
もしかして、僕にも淹れてくれたのか……?
って、他の人のコーヒーは丁寧にドリップして、綺麗なカップに淹れてるのに、なんで僕だけ、うがいコップみたいな。
まあ、いいや。せっかくだし、頂こうか。
椅子に座って、一口飲んでみる。わ、にがーい!! まずいよ!!
「ちょ、これっ、雑に淹れただろ!」
「んー? コーヒーも飲めないのか? たいした旦那様だな。砂糖ならあるぜ」
大きな声でそう言い、ヒヒッと嗤う、レニーの執事。
ぐぬぬぬぬ〜!
「ああ飲んでやるよ! こんなの苦くもなんともないんだからな!」
一気飲みした後の、記憶が無くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます