第45話   匂いに敏感

 きみとは同室にならない、と言ってしまった手前、僕は宿の中に入れないでいた。


 こうなったら、今日こそ一晩中、歩いてやる! でも肌寒くなってきたし、一人だといろんなこと考えちゃって嫌になるから、ちょっと馬宿に寄ろうかな。


 馬宿には、他の宿泊客の馬車や馬たちが収まっていて、レニーの馬車を引っ張っていた元気すぎる馬たちも繋がれていた。


 僕が近づくなり大きないななきを上げて、前足のひづめを振り回すものだから、さすがに怖い。蹴られたら骨折ものだ。


 うわ! わらまで飛んできた。落ち着かせたいから、声でもかけてみようかな。


「やあ、疲れてないか見にきたんだけど、その様子じゃ明日も心配ないみたいだね」


 ちょっと撫でてみたかったんだけど無理そうだな……ん? ふさふさのたてがみの間から、一本の黒い突起物が伸びていた。これ、つの? 途中で切断されてるけど、もしもこのまま伸ばしてたら、けっこうな長さになったんじゃないかな。


 馬に角が生える種類がいるなんて、初めて知った。よく見ると筋肉隆々で、体格も普通の馬より二回りはでかい。まるで馬の皮を被った獣だ。


 ケイトリンさん、こんな動物まで調教できるんだ……けっこうムチとか容赦なく入れる性格なのかもな。


「きみたちも大変だったな。主人が代わって、今は、ベラドンナ家でこき使われてるんだろ」


 何度か話しかけていたら、だんだんと馬の興奮が治まってきて、やがて僕の腕の中に、自分から頭部を収めてしまうまでにリラックスしてくれた。


 可愛いな〜。動物って、言葉はしゃべれないけど、その分、全身で感情を表してくるから、ちゃんと読み取ってあげたら、なんだかお互いに通じ合えたような、穏やかな気持ちになれるんだな。


「あらあら、こんな所に隠れちゃって。若いっていいわね」


 あ、宿屋の。


「聞いたわよ〜、新婚一日目だそうじゃないの。どうしてウチなんか選んでくれたのか知らないけどさ、恥ずかしいからって逃げ隠れしちゃ、お嫁さんに失礼じゃないの」


「ええっ!? あの、僕たち、そんな関係じゃ……」


 なんで無関係なこの人たちに、身の上を話すんだよバカレニー!


 ああもう、おばさんもそんなわくわくした目で見ないでくれよ。僕らは結婚はしてるけど友達未満なんだよ。


 強引に引っ張られて、宿に引っ張りこまれた。うわ、なんだこの、もったりした花の匂いは……玄関の臭い消しにしては、強すぎるぞ。目が回りそうだ。


 受付に立っている宿屋のおじさんが、僕を見るなり安堵した顔に。


「ああ来た来た。大変なんだよ、お兄さん、部屋に行って注意してくれよ。他の客まで廊下に出て、なんだなんだと騒ぎになってるんだ」


「行くって、どの部屋に?」


「奥さんの部屋だよ。うちでいちばん広くて良い部屋を借りてる。ちなみに、お兄さんも同室だよ」


 あ、忘れてた! 僕の荷物、結局レニーの部屋に運ばれちゃったんだよな。世の中、チップを弾んだほうが勝つんだって学んだよ。


 うへえ、行かなきゃダメー? 表面上は夫婦なんだし、行かなきゃダメかぁ。


 うーわー、一歩進むたびに臭いが強くなってる気がする。狭い廊下に、人だかりが。この辺りは他に宿屋がないようで、この地域に用事がある人が自然と集まってしまうからか、けっこう混んでるし、宿も大きい。


「いい匂いね〜」


 女性客の一人が、うっとりと呟いたが、となりの男性は「甘ったるいから苦手だ……」とボソリ。うん、僕も同感する。


 レニーのいる部屋の前には、僕の背中をさすってくれたメイドが、なにやら透明な液体の入った瓶を片手に、女性客と話していた。なんと、マッサージオイルの宣伝をしている。


「あ、クラウス様、どうされましたか?」


「どうって……あのさ、宿中がすごい臭いだって苦情が来てるんだ。きみたち、部屋で何かやってる?」


「え? ああ、おそらくは、このマッサージオイルの試供品を受け取られたお客様が、さっそくお部屋で実践されているからですよ。大勢のお客様がお使いになると、宿屋いっぱいに香りが広まってしまうのですね」


「ですね、じゃないよ。苦情が来てるんだってば。今からこの臭いを、どうにかできないかな」


 部屋の中から、高笑いが聞こえた。


「あーらあら、嗅ぎ慣れない芳香に酔いしれる殿方の多いこと。女性と一緒にオシャレを楽しんだ経験が、無いのですわね」


 この声は、レニーじゃないか。部屋越しでも煽ってくるなよ。


「臭いものは臭いんだからしょうがないだろ。きみがこんな商売を始めるだなんて聞いてないぞ」


「だって、言ってませんもの」


 まさか、きみの荷物鞄のほとんどは、行商用の商品でぎっしり埋まってるんじゃないだろうな。大した商売根性だ。


 って、感心してる場合じゃない。


「レニー、宿屋のご夫婦も困ってるんだ。試供品か商品かわからないけど、客に渡すのはやめてくれないか」


 ……おい、無視すんなよ。無視は離婚の原因にもなるって言ってたのは誰だよ。


「レニー、入るぞ」


 短くノックしたが返事がない。僕は思い切って扉を開けた。


 そしてダブルベッドのど真ん中を占拠している、うつ伏せの裸婦像に絶句した。


「な、なな、なんで、裸」


「んもう、騒々しいですわね〜。せっかくのリラックスタイムが台無しですわ」


 長い金髪を頭のタオルに綺麗に納め、薄いタオルをお尻に乗せて隠している以外は、ほんとに何も身に付けてなかった。


「貴方が馬宿に閉じこもっている間に、わたくしはお湯をいただきましたの。ついさっき上がったばかりですわ」


「え? 早いね」


「湯船が小さくて、くつろげませんでしたもの。真四角のオモチャ箱のようでしたわ」


 レニーは大あくび。今にも眠ってしまいそうだ。


「寒いですわ。閉めてくださらない?」


「あ、はい」


 扉を丁寧に閉めてから、僕はまた我に帰った。


「この臭いを、なんとかしてほしいんだ。僕はオイルとかよく知らないから、どうしたらいいのか、わかんないや」


「ふぅん、臭い、ねえ?」


 レニーは、心底どうでもよさそうな半目だった。


「わたくしの商品にケチをつける輩は、わたくしの地位、名誉、美貌、知性その他全てに反発することでしか自らを主張できない無能ばかりでしたわ。そんな方々のために、何かして差し上げる暇なんてありませんのよ」


「嫉妬とかじゃなくて、本当に臭いんだって。僕もここにいると頭痛がしてくるよ。臭い以外の原因もあると思うけどさ」


 主にこの状況とかさ。僕を無理やり同室にしておいて、僕に一言もなく全裸でマッサージを受けるなよ。めっちゃくちゃびっくりしたぞ。そしてきみも少しは恥じらえよ。バカには見えない服を着てますの、とか言い出すなよ。


 メイドは真剣な顔をして、レニーのふくらはぎをマッサージしている。きみも長旅で疲れてるだろうに、大変だよな。


「たった一つだけ、解決法がありますけれど……ねえクラウス、その苦情というものは、主にどの年齢層の、どんな方々が発しておりますの?」


「え? えっと、僕を含めていろんな年齢層の男性が、しかめっつらだよ」


「そう……男性にはお花の匂いはキツ過ぎたようですわね。この商品は香水と同じく、ミドル・ノート、ラスト・ノートと、香りが変化いたしますの。そちらの反応も確認したいですわね」


 現在進行形で大勢に迷惑をかけてるのに、まだ実験するんだ……。


「この商品を持ってきた理由は、以前からあらゆる宿泊施設に寄せられていた女性陣からの要望に、応えるためですの。心の喜びは、熱いお風呂とお布団だけでは得られないときもありますわ」


「この臭いをなんとかできる方法を知ってるんだろ? さっき一つだけあるって言いかけてたじゃないか」


「お教えしましょう。ですけどその前に、アンケートに協力してくださいな」


「え?」


 レニーが片肘をつき、不敵に笑っている。オイルまみれで輝いている肌はとってもセクシーだが、こっちは強烈な花の香りで頭痛、さらには吐き気に襲われていて、早くこの部屋から出たい一心である。


「男性にも愛用していただくためには、グラス系がいいかしらね。ミントのような目の覚めるスッキリ系だと、寝る前のマッサージには向かないでしょうし、この場合は苦みと渋み、どちらの系統で攻めましょうか」


「草〜? 雑草はダメだよな……。苦みと渋みがあって、イイ匂いかぁ……あ、じゃあ草じゃなくて、お茶はどうかな」


「ダージリンとか? ですけど、薫り高いお茶は主張が激しくて、使用者にお茶の印象しか残さなくなりますの。すっと消えて、それでいて男性も日常的に使いたくなるような気さくで軽い香りにするならば、はっきりとした紅茶の香りは避けたいですわね」


 え〜? もう、わっかんないよ〜。ようは、男性に「知っている匂いだ」って気づかれないようにしたいのか?


「じゃあ、緑茶とか」


「リョクチャ?」


「父さんが好きだったお茶なんだ。イイ匂いだから、よく覚えてるよ」


「リュー・シュミットのお墨付きですのね? ですが、あらゆる香りに精通したこのわたくしでさえも、リョクチャなる紅茶は存じ上げません。どこで手に入りますの?」


「ニホンだよ。どこの地図にも載ってないけど、父さんはそこから来たんだってさ。このへんじゃ珍しい香りだと思うよ」


「………シュミット博士はどこからソレを取り寄せていましたの?」


 え……レニーが起き上がっちゃったよ。すごく興味津々な顔で、ベッドからオリチャッタヨ!?


 うわあああ! こっち来た! 壁ドンされた! せめて上か下か隠してくれよ! 後ろでメイドが見てるよ! ぼっ、僕は、いったいどこを向いていれば自然に見える!? どこ向くべきなの!? 誰か教えてくれ!!


「ここまで話したのなら白状なさい! シュミット博士はどこから取り寄せていましたの!?」


「ど、どこにも売ってないから、錬金ティーポットで造ってたよ。でも上手く造れなくて、いつも渋過ぎるって言ってた。だけど香りは良かったから、香料として使うなら問題ないと思うよ」


 なんでこんな状況で商談してるんだよっ! ど、どこ向いてしゃべればいいかホントに困る!


 わあああ! なんで嗅ぐの! 僕の首なんか嗅いだって、なんも楽しくな――


「貴方、家畜臭い」


「え?」


 レニーが顔をしかめながら、大げさに後退った。形の良い大きな胸もつられて弾むが、彼女は気にしていないどころか、僕にビシッと指を突き付けた。


「このわたくしの夫ともあろう者が、とんでもない悪臭を放っていますわね!」


 あ、馬宿の――と脳裏に心当たりがよぎった、と同時に、レニーのすらっとした腕が僕の胸ぐらを掴んで、


「お風呂に入って出直してらっしゃい!」


 足払いに視点が半回転。気付いたときには、廊下に背中を強打していた。


 部屋の扉がバタンと閉まる。


「イッテテテ……いきなり放り出すことないだろ!」


「いいえ! 悪臭は放り出すに値しますわ。麗しい香りをまとう努力は、他者へ向ける愛そのものですの! 臭いまま妻へと歩み寄る夫のどこに魅力を感じればよくって!? お風呂に入るまでは鍵を開けませんし、何も答えませんからね!」


「ええ!? この臭いをなんとかする方法は!?」


 倒れていた僕は起き上がって、ドアノブをガチャガチャしてみたが、開かない。返事もない。


 ……ハア〜、もう……やれやれだよ、こんなに匂いにうるさい人だったとは。めんどくせー人だなー。こりゃお風呂に入らないと、まともに口を利いてくれない雰囲気だぞ。


「わかったよ。じゃあお風呂に入るから、その代わり苦情が出るような油をばらまくのはやめるんだよ! さもないと馬糞まみれできみと添い寝しちゃうからな!」


 捨て台詞だけ扉に吐き捨ててから、僕は風呂へと向かっていった。


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