第40話 フェアリー・シークレットサービス
あたしこと『メルクリウス・ラヴァーズ』の一プレイヤーにして、未だ沼から抜け出せません十九歳の彼氏なし実年齢は、このたびアイリスちゃんのシークレットサービスとなりまして、とりま誰にも気づかれないように、アイリスちゃんの抱っこしている白ウサギのセーター内部に潜伏している次第でありますっ!
さて、ふざけたノリで自分を落ち着けたところで、今後を考えないといけないわね。こんな展開、ゲームにはなかったもの。何したら正解なのか、わかったもんじゃないわ。
ゲームだと森から出てこないナゾの
もう別ゲーよね、これ。っていうか、クラウス王子が鼻血出してたし、ここは怪我もするし、きっと死者も出るんだわ。現実となにも変わんない。
あたしはウサギのぶかぶかのセーターの中から、顔だけにょっきり、のぞかせた。
アイリスちゃんは、泣きすぎてしゃっくりをあげちゃってる。うすいまぶたが真っ赤になっちゃってて、片手を、
つないだって表現は、違うわね。アイリスちゃんが無理やり手をつながされてるって感じだわね。振りほどく力が、ないから。
アイリスちゃんは、可愛いんだけど、お兄さんがいないと、なんにもできないキャラなのよね。どうやって守ろうかしら。
まあ、なるようになるわよね。あたしも全力だけは、いつでも出せるように身構えときましょ。
「おにーちゃま……」
ピンクのくちびるを噛みしめて、アイリスちゃんの顔がまたくしゃくしゃになる。
小柄なメイドがクールな銀色ボブヘアーを揺らして、アイリスちゃんを見下ろした。
「お兄様が、どうしたんですか」
「おにーちゃま、どこ?」
「反省室にいらっしゃるかと」
「アイリシュも、はんしぇーしちゅ、いきちゃい! ねえ、ちゅれてってー!」
立ち止まって、駄々をこねるアイリスちゃん。でもメイドさんは、その手を強く引っ張り続けて立ち止まらない。
「ねー! ちゅれてってー!」
「嫌です」
「なんじぇー? なんじぇ、ちゅれてってくりぇにゃいのー!」
「ゆっくりしゃべってください。その一言を、その一文字を、心から紡ぎ出すように。そうすれば、もっと自由に話せるようになりますよ」
ゆっくり話すよう言われたアイリスちゃんは、アーモンドアイをぱちくりし、しばらくメイドの横顔を見上げていた。
「おにー、ちゃま、の、いる、ところへ、あんにゃいしちぇくだしゃい!」
最後だけ猛烈に早口になったわね。子供だもの、いろんなこと早くやりたいわよね。
「嫌、です」
「なんじぇー? なんじぇ、やにゃのー?」
「貴女よりも、王様のほうが、身分が上だからですよ。私は身分の高い人の言うことを聞くメイドなのです」
「じゃあ、アイリシュもみぶん、たかきゅなるお」
「高くなるのですね? では、参りましょう。お勉強の時間です」
お勉強? そう言えばアイリスちゃんは、七歳になったばかりなのよね。現代日本で言えば、小学校の一年生かしら。
アイリスちゃんとあたしは、とある部屋に連れて行かれた。そこには優しそうな雰囲気のおばさんが待っていて、アイリスちゃんを子供用の椅子に座らせると、カルテを片手にいろんな質問をしたわ。
アイリスちゃんは、半べそで質問に答えてゆく。あたしは、それをじっと聞いていた。
……うん、あのね、ざっくりと説明するなら、おばさんがやってたのはアイリスちゃんの学力テストだった。この子が家でどの程度の勉強をしてきたのかを、測ってたみたいなのね。
でね、アイリスちゃんは文字が書けないし読めないし、数は三つしか知らなかった。知っている大人の名前は、マンマ、おにーちゃま、カークおにーちゃま、の三人だけ……。
一人でお着替えができるのか、という質問には、椅子の後ろに立っている小柄なメイドが、代わりに答えた。
「いいえ。着替えは私がほとんど手を貸しました。泣いてばかりで、自分でやろうとしないんです」
そ、そうなのよね……会場でクラウス王子がぶん殴られたショックで、テンパっちゃったって理由もあるけど、あの後アイリスちゃんは、ただただ泣いてたの、ずーっと、大声あげて。
あたし、一人っ子だからさ、歳の離れた
で、今、アイリスちゃんの学力検査の結果が出たでしょ? 数くらいは、せめて十まではいけないと、まずいんじゃないかしら。手の指が十本もあるんだから、十までの計算ならできるはずだわ。
……うーん。クラウス王子が親代わりになって頑張ってきたことは、なんとなくわかるわ。けど、あの強烈なお義母様と闘いながら領地を管理してきた彼には、妹を教育する時間が、取れなかったんだと思う。
「それではアイリス・シュミット、今日から三ヶ月間、貴女が生きていく上で絶対に必要な教養を取得していきましょう。最終テストで見事に百点を取った暁には、お兄様のもとへ帰してあげます」
「ほえ〜? ひゃくぺん?」
先生、もっとわかりやすい言葉でお願いします。この子、三つまでしか知らないんです。
うーむむ……。これからアイリスちゃんにお勉強が始まるみたいね。三ヶ月間、つまりアイリスちゃんが人質になってる期間だけの授業か。
最低限の教養だけは、受けさせてもらったほうがいいような? うーん、なんだかスパルタママになった気分だけど、泣き虫駄々っ子アイリスちゃんのために、ここは、流れに任せましょうか。
いつまでも、おにーちゃまー、なんて泣いてちゃ、厳しい貴族社会で生き残れないかも。
それに、授業があまりにも厳しいものだったら、あたしがこの子を誘導して、外に脱出させてあげちゃえばいいんだしね。
じゃあ、決まり! 先生、アイリスちゃんを十まで数えられる子にしてください。
「アイリス・シュミット、今日のお勉強が終わったら、お兄様に少しだけ会わせてあげましょう」
「ほんちょー?」
「ええ。それでは、始めましょう。テーブルの上には、何がありますか?」
さっそく先生と生徒のマンツーマン授業が開始された。ウサギを片手で抱きしめているアイリスちゃんと先生の机には、全く同じ道具が用意されている。
「……なーに、これ?」
「ビー玉です」
「りーらま?」
「先生の机の上にも、同じ数のビー玉がありますよ。では、いっしょに数えていきましょう。まず、一個」
一から十までの数字が書かれた透明なケース。ビー玉が転がっていかないように、仕切りがあって、アイリスちゃんは一の数字の上に、そっとビー玉を乗せた。
「せんしぇー、できまちた」
「では、答え合わせをしましょうね」
先生はご自分のケースを傾けて、アイリスちゃんに見えるようにした。先生と生徒、同じ数字の上にビー玉が乗っている。
「正解です」
「わあ! いっこ、できたお!」
「よくできました。では次です。二個」
ニの上に、ビー玉を載せたアイリスちゃん。
順調、順調、がんばって!
その後アイリスちゃんは、なんと七つまでビー玉を置くことができたの。三つから七つよ! 大進歩ね。
「おにーちゃま……」
あ……またぐずっちゃったわ。疲れちゃったのかしら。今日は、いろいろあったものね……。
「アイリス・シュミット、あと少しですよ。頑張って」
「やあだあああ!! やだやだあああ!!」
あーあ、ケースごとビー玉を床にぶちまけちゃった。ウサギの耳を持って、部屋の扉まで走ってっちゃったわ。
「おにーちゃま! おにーちゃまー!」
開かない扉をバンバン叩いて、叩いて叩いて、大きくよろけるとそのまま床に泣き崩れてしまった。
「アイリス・シュミット、あと少しです。頑張って、十まで覚えましょう」
「……」
「アイリス・シュミット? 大丈夫ですか?」
けっきょく、この癇癪でアイリスちゃんは残りの体力を全部使ってしまい、床に倒れ込んでぐったりしていた。
真っ青な顔で、ウサギのぬいぐるみを抱きしめて倒れているアイリスちゃんを、あの小柄なメイドが背負って、別の部屋へと運んでいったわ。
「どこに連れて行くの? って訊いたって、あたしの声は誰にも聞こえないんだったわね」
「いいえ、聞こえていますよ。異世界から連行されたお客人」
ギョッとしたわ。思わずセーターから身を乗り出して、自分の上半身を出してしまった。
「あなた、あたしのこと知ってるの!?」
「はい。伯爵家のメイド人形一番の中にいた
「元気なもんですか! 自分に降りかかった理不尽の連続にストレスマックスよ!」
メイドはどこか冷めた微笑だった。心底どうでもいいと思ってそうな顔だったわ。生まれ付きそういう顔なのかもしれないけど、感じのいい女の子でないのは確かね。
「貴女はこの場所に、どんな望みを抱いて来訪したのでしょうか」
「いろいろあるけど、伯爵への復讐が最終目的ね。あいつをなんとかしなくちゃ、あたしは成仏できないわ!」
「では、その復讐を、私もお手伝いいたします。彼の罪は、私の罪。貴女の嘆きは、私の嘆き。どんなことでも、相談してください」
え……? な、なんなの、この子。
「ありが、とう。味方が増えるのは、嬉しいんだけど、あなた何者なの?」
銀髪のボブヘアーを揺らして歩くメイドが、ニヤッと口角を上げた。
「私の名前は――メルクリウス・ブラッドと申します」
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