第37話 断罪!? 僕とレニー嬢
僕がよろよろと駆け込んだお手洗いは、真珠のように輝いていて、うっかり女性用に入ってしまったのかと勘違いして廊下に出てしまったくらい綺麗だった。
いっててて……鏡に映った僕は、鼻血で口元まで汚れていた。鼻は折れてないとは思うけど、鼻の付け根がすごく痛い。
蛇口をひねって顔を洗っていると、僕の名前を呼ぶ声が。びしゃびしゃの顔のまま振り向くと、カークのお父さんが、杖を突きながらとなりにやってきた。
「ハッハッハ、よくやったよ、クラウス君。きみが使った杖が、私の物でなかったのが残念だ」
白いハンカチを「汚して構わないよ」と手渡された。僕はようやく、頭が冷えた気がして、彼に頭を深々と下げた。
「カークやケイトリンさんが、せっかくここまで導いてくれたのに、僕……」
頭の上で、カークのお父さんが、難しいため息をついたのがわかった。
「今回の件で、陛下はお怒りだろう。どんな沙汰を下されても、噛みつかないように気をつけなさいね。次は、おそらく、もう無いから」
「はい……」
どうしよう、やっちゃったよ……。感情的になるなって、ケイトリンさんからも言われてたのに。
顔を上げても、カークのお父さんの顔がまともに見れなくて、うつむくことしかできなかった。
今頃、会場の空気は最悪だろうな。もう、舞踏会で女性に声をかけるどころじゃないよ。帰らなきゃ……。
落ちこむ僕の目の前に、純白のドレスを揺らしてケイトリンさんが走ってきた。ハイヒールが半脱ぎになってて、よろめいている。
「こらこらケイトリン、ここは男子用トイレだぞ。いくらなんでも、その格好で入るのはやめなさい」
「違うよ、お父さん、大変なの。こっちも
「なんだって? 彼らをどこに置いてきたんだい?」
「お城の兵士に、預けた。立食パーティに動物同伴は困るからって。でも、さっき王様の使者が来て、動物はまだかって聞かれた」
ケイトリンさん、この人はカークのお父さんであって、きみのお父さんではないよ。呼び間違えに気がつかないほど、慌てているようだ。
ケルベロスたちが献上できなきゃ、カークの夢が、叶わなくなる。それは舞踏会当日まで腕に生傷を作ってきたケイトリンさんの助力も、無駄になったということになる。そんなの、あんまりだ。
捜さないと。
「あなた! あなた、どうしましょう!」
「なんだお前まで。一家でトイレの入り口を塞ぐんじゃない」
今度はカークのお母さんだった。露出の少ない、ふっくらとした緑色のドレスを着ている。
「お母さん、アイリスはどうしたの? 僕が使者と話してる間に、トイレに連れてってくれたはず」
「そのアイリスちゃんが、小さなメイドに連れてかれちゃったの! どうしましょー! 預かってる大事なお子さんなのにー!」
うっそだろ、アイリスまで、なんで……。
レースのハンカチで顔を覆って泣いているご夫人の横を通り過ぎて、何も考えられないまま廊下を歩いた。
何が起こってるのかわからなくて、目の前がぐにゃりと
「クラウス・シュミット様ですね」
顔のぐにゃっとしたお爺さんが、廊下の真ん中に立っていた。
「会場で陛下がお待ちです。お戻りください」
だんだん視界がはっきりしてきて、相手が執事服を着ていることがわかった。誰かの執事なんだろう。
「待ってくれ、妹がいなくなったんだ。捜さないと。まだ七歳で、城に来たのは初めてなんだ」
「アイリス様でしたら――」
お爺さんは会場のほうへ、顔を向けた。後ろで一つ結びにした白髪が揺れる。
「陛下がお預かりされております」
なんで王様は、僕じゃなくてアイリスを捕まえてるんだよ。意味がわからないよ。返してよ。
混乱しながらも心に沸いてくる不平不満、それらが口から出ないように、僕は口を閉じて、扉を引き開けた。
ワッと耳に入るのは、楽しげな声。そこには、僕らのことなど我関せずに、種類豊富なメインディッシュを取り分けて食べる招待客の姿があった。
まるで、なんの事件も起きなかったごとく、皆、思い思いの時間を楽しんでいる。新しい商売を提案して、話が盛り上がっている集団もいた。
つ、強い……この人たち、強いぞ。きっとくぐってきた修羅場が違うんだろうな。お酒や若者の乱闘騒ぎなんて、慣れてるんだろうか。
それにしても、鼻を白いハンカチで押さえながら歩くのは、恥ずかしい。喧嘩を誰にも怒られないというのも、なかなか寂しいものがある。
ウェルクライム・ハイドは、大丈夫なんだろうか。気絶してたみたいだし、あとで謝らないと……。本音を言えば、謝りたくなんかないけど。
「戻ったか! このうつけ者めが!」
突然の大声が、落雷のように降ってきたかと思うと、あの玉座から立ち上がった、一人の大男がいた。
周囲が、しんと静まり返る。
あの人、何度見ても王様に見えないよ。あーあ、僕は何を言われるんだろうか。何を言われても、絶対にアイリスだけは取り返さないと……って、あれ? 玉座の横にはベラドンナ・レニーが立ってるんだけど、そのとなりにはクールな感じの
アイリスは、なぜか赤いドレスに着替えていた。王様の大声にびっくりしたのか、目を丸くして彼を凝視している。
ベラドンナ・レニーがヒステリックに髪の毛を逆立てて、僕を指差した。
「よくものこのこと戻ってこれましたわね、厚顔無恥も甚だしい! 陛下は貴方をお許しにはなりませんわよ、覚悟なさい!」
会場が静かだから、遠くにいる彼女の金切声がよく聞こえる。
じゃあ僕の声も、聞こえるよな。
「執事も教育できない者が、陛下の婚約者を名乗るな!」
「なっ! キイイイ!!」
よほど腹を立てているのが、彼女の語彙力が猿になっている。
「全くもって、その通りだ!」
は? ……王様が突然、僕に加担した。
ぐるりと体ごと向き合った巨体に、ベラドンナ・レニーが凍りつく。
「陛下……? なっ、え? ちょ、どういうことですの?」
「レニーよ、私との約束はなんであったか忘れたか」
「忘れてなど! わたくしは何も違反しておりませんわ! 信じてください!」
「十歳以下の子供には、危害を加えるなと命じていたはずだ! 王命を忘れたか!!」
うわー、めっちゃ怒鳴られてる。
「な、なんのことですの!? 陛下はわたくしがアイリス嬢を保護することに、許可してくださったではありませんの」
え? それは僕、初耳なんですが。
それに子供に危害って話も、変だよ。殴られたのは、僕だし。
あ……わかった、アイリスが着替えてる理由が。僕とウェルクライムの乱闘騒ぎに、アイリスが怖がって、トイレが間に合わなかったんだ……。
レニー嬢は王様の言葉の意味に、気付けるだろうか。気の毒になるほど狼狽しているから、たぶん、無理かもな。
「連れていけ」
王の無慈悲な号令に、足早く応える近衛兵。彼女は両腕を掴まれて、罪人のごとく、兵士に連れていかれてしまった。
……え? 彼女、どうなるの?
あのー、アイリスをおもらしさせた罪で斬首とか、そういうのは、やめてあげてほしいんだけど。僕にも、罪はあるわけだし。えっと、どこの誰に相談すればいいんだろう。こういうとき、不勉強な身の上を呪ってしまう。
あ、王様は椅子に座るのかな。ちょっと腰を落として、屈むような姿勢になって――って、跳んだああああああ!!
うわあああ! シャンデリアに掴まって、うわあああ! シャンデリアを振り子みたいに揺らして、僕んとこに着地したあああ!!
ギャアアアア!! 腰蓑の下、履いてなかった! この人、変態だよ!!
あ、黒髪がふぁさってなびいている……って、それ背中の毛じゃないか!!
わあああ!! 腕を掴まれた!! 助けて折られる!! 殺される!!
「貴様がクラウス・シュミットを名乗る小僧か。もっと顔をよく見せてみよ」
いででで! 頭を鷲掴みにして上を向かせるな! あ、ウィッグがずれちゃった、前が見えづらいよ。
「貴様への処遇は、特別なものにしてある。これから三ヶ月もの間に、この国の悪を正してみせよ! さすれば今宵の無礼千万、全て無かったことにしてやろう!」
なんですか、そのふわっとした命令は。この国の悪だ? なんだそりゃ?
「あの、全て無かったことにとは、彼女と、彼女の執事の失態も、入っているのですか?」
「そうだ、三人分だ」
ええー、なんであの二人の分まで。そもそも、この国の悪は彼女だろ。イチャもん付けて殴ってきたのは、あっちの執事だし。
「三ヶ月もの間に、何も成果が出ないのであれば、ベラドンナ家の財産は没収する」
え? 僕の失敗で他人の財産が消滅するの? なんだよそれ、胃が痛いよ。
「そしてクラウスを名乗る小僧、貴様は国外追放だ!」
うそだろ、重いよ! 僕は巻き込まれただけなのに!
「僕の場合は、正当防衛にならないのでしょうか」
「ならんな」
うわ、即答された、腹立つ〜。
パーティを台無しにした罪は、そんなに重いものなのか。
「必死で悪を追求してみせろ。お前の中の、悪を含めてな……」
「その命令をお受けする前に、我が妹を返していただきたいのですが」
もう僕のカツラがめちゃくちゃになってるよ。頭から手を離してよー。
「アイリスは人質とする」
「ええ!? うちの妹をどうするつもりなんですか!」
「アイリスには、聞きたいことが山ほどある。三ヶ月間、大事に預かるぞ」
えええ!? なんだよ、それ! なんなんだよ!!
「連れていけ」
いつの間にか、僕は兵士に両腕を掴まれて、引きずられていた。
「陛下! どうして! 妹になんの罪があって僕から引き離すのですか!」
「おにーちゃまああ!」
最後に会場で聞いたのは、アイリスの悲痛な叫び声と、
「この私を悲しませた罪は、重いぞクラウス! ハーッハッハッハッハ!」
裸バナナ野郎の笑い声。そして賑わいを取り戻した、冷酷な招待客の談笑だった。
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