第2章 伯爵を名乗る怪人
第11話 伯爵の屋敷から不気味な声が
さて、さっきから歩いても歩いても伯爵の豪邸の
なんだか、女の人たちの鼻歌のような、聞いていて不安になる音程の声が、聞こえてくるんだけど……どこから入ればいいんだ?
適当に塀をたどっていれば、そのうち入り口が見つかるんだろうけど……あ、道に男の人が立ってるぞ。薄暗い時間帯に、黒っぽい服が妙に近寄りがたい雰囲気を放っている。
なんて思ってたら、目が合った。
「こんばんは」
僕から声をかけると、男の人はずかずかと歩み寄ってきた。よく焼けた肌の、引き締まった体のおじさんだった。着ている服が厨房に立つ料理人のように見えるが、仕事の途中で、ここに来たのだろうか。
「あんた、この辺じゃ見ない顔だな。伯爵の屋敷に用事なのかい?」
「はい。あの、あなたは?」
「俺はこの屋敷の主人と、十年ぐらい付き合いのある者さ。表通りで店やってる」
おじさんは作業着の胸元の
店を紹介されてもなぁ、お金がないから、好きな物が注文できないんだ……。この人、伯爵の友達らしいけど、それだったら、彼について詳しいはずだ。
「僕はこのお屋敷を初めて訪れる者なんですが、伯爵のご容体が少し、良くないとの噂を耳にしました。本当の話なんでしょうか?」
「んん? あんたぁなーんにも知らないのか」
「教えていただけると助かります」
「しゃーねーなぁ、このお
む! なんてこと言うんだ、この。王都の出身か知らないけど、地方をバカにするんじゃないよ。野菜とか、いろんな物は、みんな地方から来てるのにさ。
「伯爵は商才あふれる敏腕なお人でね、俺ぁ駆け出しの頃によく金銭を世話してもらってたのさ。んで、今じゃ俺は表通りに店を構えるまでになったのよ。伯爵もよく飲みに来てくれたよ。で、だ、その伯爵が、数年前から人が変わったように、屋敷から出てこない。俺ぁ伯爵に返したい金があるんだ。耳をそろえて、返せる。しかし、玄関はいつも閉まったままだ。どうやって生活してるんだか」
「……誰も伯爵の姿を、見かけていないんですか?」
「そうだ。もう相当な爺さんだから、誰か世話してやってるとは思うんだがな。たまに女の声がするし、中で孤独死してるなんてことはないと思うんだ、わかんねーけど」
わかんないのかよ。それにしても、ええ〜……なんとも不気味な話だな。僕は今日中に、屋敷に入ることができるのだろうか。正直に言うと、入りたくないけど。
そうだ、もう一つ聞きたいことがあった。
「伯爵の家に入りたいんですけど、玄関はこの先でしょうか」
「反対側だよ。この塀をたどって歩いていきゃわかる」
反対側って、僕がさっき歩いてきた道じゃないか。お
「でもおじさんはさっき、伯爵にお金を返しに来たって言いましたよね。ここから入ろうとしてたんじゃないんですか?」
「違うよ。屋敷に来たけど中に入れねーから、ちょうど帰る途中だったんだよ。こっちには玄関はねーぞ」
というわけで、僕はすっかり暗くなった道を、戻っていったのだった。
あ、あった。ようやく塀の切れ目を見つけたぞ。
カーク、今ここにきみはいないけど、本当にきみの気遣いと頭の良さには感服するよ。初めから屋敷の入り口付近に、僕らを案内してくれていたんだね。
僕はそれに気づかずに、遠回りしてたんだ。
だって、ここに塀の切れ間があるんだと気づけないぐらい、雑草がぼうぼうなんだよ。僕だけのせいじゃないよね、これ。伯爵の雇ってる庭師の美的センスに問題があるよね。
柵は、開いてるけど、ええ、入っていいのかな。雑草がぎっしり生えてて、すごく
門番は、いないみたいだ。よし、
がさがさと雑草を踏み分けて進みだす。どう見ても手入れされていない裏口とか台所の勝手口とか、なんならゴミを置いておく場所にすら見える。
うーわー、玄関周りも草でぼうぼうだ。大きな金縁の付いた茶色い扉という、しゃれた造りの玄関扉も、掃除されていないのか、汚れてくすんでしまっている。
女の人たちの、楽しそうなんだかそうでもないんだか、よくわからない声が、聞こえる。会話しているわけではないようだ。皆が一斉に、思い思いの言葉を発しているようだった。何か、ゲームでもしてるのかな??
雑草に負けじと、扉に近づいた。うわぁ、きったないなー、ほんとに汚れてる……でも、行くしかないんだ、よし、ノックする!
コンコンと、乾いた木の音が、屋敷の中まで響いていったように感じた。女の人たちの声が、一斉に静まる。
「はい、どなたでしょうか」
扉越しに、若い女の人が立っているようだ。抑揚、元気、感情、それら三つが欠落した、不気味な声色だった。
「あの、こんばんは。伯爵に、ご婚約の件でお話があって参りました、クラウス・シュミットです。あの、アイリス・シュミットの兄です」
……あれ? 反応がないんだけど。
いくら貴族社会で存在感のない僕であっても、伯爵が婚約者の兄の名前を知らないなんて失礼なこと、あるわけがない。
扉越しに接客している女性も、無言になるなんて失礼だろ。何か言えよ、お客が困惑するだろ。
「ようこそ、お越しくださった。シュミットの子供たち」
扉越しから、やたらこもった声が聞こえた。老人の声だとは思うんだけど、なんだ? この声のヘンな感じ。まるでその場にいないみたいだ。
扉が開かれた。長ーい黒髪のメイドが開けてくれたらしい、扉の傍らに、無言で立っていた。
「さあ入りたまえ、クラウスくん、そしてアイリスちゃんも」
壁の
僕は後ろを振り向いて、アイリスと勘違いされるような美少女が、ついてきていないことを確認した。
「あのー、僕は今、妹は連れてきておりませんが」
「……」
んん? そっちから僕の様子は見えていないんだな。
「クラウスくんは、他に同行させている者はいないかい」
「はい、一人で参りました」
「よろしい。二階の私の部屋まで、上がってきなさい」
それきり、伝声管は鳴らなくなった。
僕はてっきり、このメイドが二階まで案内してくれるのかと思って、待っていたのだが、メイドは僕と目が合っても、ぶらーんとした動きで小首を
「あのさ、勝手に歩いて行けばいいの?」
僕が小声で尋ねても、メイドは、ぶらーん。返事ぐらいしたらどうなんだ。美人なのに、感じ悪いな。
あ、もしかして、体調が悪いのかな。そのわりには姿勢が良くて、肌と髪が怖いくらいにツヤッツヤしてるんだけど。
「はい」
え? 返事するの遅くない?
「じゃ、じゃあ、二階に上がるね」
「はい」
「……きみは、付いてこないの?」
「はい」
メイドの視線の先は、床だったり、壁だったり……。僕の話、聞いてるのかな。なんか、適当に返事されてる感じがするんだけど。
「はい」
……僕、なにも言ってないんだけど。
なんだか、寒気がしてきたぞ。早いところ二階に急ごう。
僕は早歩きして、その場を離れた。あ、どこに階段があるのか、わからないや。伯爵のお屋敷に入るのは初めてだから、階段どころか、部屋の構造もまったくわからない。
壁の燭台も、
あ、前方の燭台の下に、メイドが立ってる。あの
「ちょっとごめん、伯爵様に呼ばれた者なんだけど、彼のいる二階までの、階段がわからなくて……」
僕は思わず、それ以上の言葉を発することが、できなくなってしまった。
メイドは一人ではなかった。いろんな髪の色、目の色、胸の大きさ、見た目だけは個性的なメイドたちが、暗がりの中で、壁にもたれていたり、座り込んでいたり、寝ているのか倒れている子もいた。
しかも
どうなってるんだよ、伯爵の使用人に対する教育方針は。顔が良ければ全部許してしまう人なんだろうか。これはちょっと、伯爵に一言いわないと。今後、僕のように不快な思いをする客が出るのは、彼の
って、階段はどこなんだよ!
僕は勇気を出して彼女たちに、紳士的に階段の場所を尋ねたのだが、全員に無視された。
けっきょく自力で捜し当てるまでに、
こんな所、とてもアイリスを嫁がせられないよ。伯爵には絶対にあきらめてもらわないと。
僕は手すりをしっかりと掴んで、階段を上りだした。
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