第1章 シュミット家
第1話 お芋サラダ
昨日の夜は、最悪な空気のままで終わってしまった。だから、アイリスに会うのも
朝からずっと元気が出なくて、この屋敷のどこかで義母さんに会うんじゃないかって思っただけでも、気が滅入ってしまった。
だからって、部屋にこもっているわけにもいかない。寝巻きから着替えて、壁の丸鏡を見ながら首元に巻いたスカーフを、父さんの形見のブローチで飾って、形よく整える。貴族らしい着飾りといったら、僕にはこれぐらいしか無かった。
「おにーちゃま、おきちぇましゅか?」
部屋の扉越しで、アイリスが語尾を跳ね上げる。
「起きてるよ、おはよう。どうかしたの?」
「きょうは、アイリシュがあしゃごはん、ちゅくりました!」
「ええ? アイリスが?」
せいぜい食器を並べるくらいしかできないと思ってたから、驚いた。
ハッ! まさか、包丁使って手とか血だらけなんじゃ……気づいたら扉を開けて、アイリスにしゃがんでいた。
「手とか切らなかった?」
「うん。おにーちゃまがおきるまで、たべじゅに、まってまちた」
えへん、と胸を張る小さな妹。べつに待ってなくてもよかったのに、なんて言うと、笑顔が曇りそうだったから、僕はお礼を言うしかなかった。
「ありがとう、待っててくれたんだ」
「あい!」
「昨日の、食べきれなかった料理があっただろ? あれは、どうしたんだ?」
「もうないよ? マンマがじぇんぶ、たべちゃった。マンマ、またおうまさんで、おでかけしゅゆんだって」
はあ? まーた馬車でどこかに出かけたのか。運賃も滞納気味なのに、馬車の御者もよく乗せてくれるよ。
「おにーちゃま……?」
「あ、ごめんごめん。朝から、機嫌悪かったよね。アイリスのごはん、楽しみだな」
「うん! おきゃおと、はを、あらってきてくりゃちゃい!」
「はーい」
僕の返事に、アイリスが大はしゃぎしながらピンクのスカートを揺らして、走ってゆく。台所で、僕が来るのを待ちわびるんだろう。些細な事にも大げさに喜ぶんだよな。
元気で優しい子なのは、嬉しいんだけどな……少し、気になることがある。
僕が七歳の頃と比べても、アイリスはとても小さくて、舌っ足らずで、年の頃よりも幼い気がするんだ。これって、栄養状態が悪くて、同い年の友達を作れる環境にいないせいなんじゃないかな。誰かとたくさんしゃべったり、競い合って走ったりすれば、体力もついて、体も大きくなって、生意気な言動も増えたりするのかな。
僕が七つだった頃は、父さんも母さんも生きてたから、今のアイリスよりは、話し相手に恵まれていた。そこそこ普通の生活も送れていたし、食べる物だって、料理上手な母さんのおかげで、好き嫌いなくお腹いっぱい食べられていた。
……って、無い物ねだりしたって、キリがない。食べる物はともかく、僕が話し相手になってやれば、孤独な環境だけはしのげるはずだ。
アイリスが待ってるから、洗面台横にためた綺麗な水で、用事をぜんぶ済ませてこよう。難しい計画を立てるのは、その後だ。
「はいどーじょ! たくしゃんたべてくだちゃい!」
「アイリス、これって……」
台所のテーブルに二つ並んでいたのは、我が領地特産、バサバサした食感と、無味無臭すぎて逆に不味さが際だっている、スイカ大のジャガイモだった。シュミット芋と名付けられたこのジャガイモは、不味いからと家畜用の餌にされている。たくさん採れるから原価が安くて、というより安くしないと買ってもらえないくらい家畜の食いつきもまちまちで、我が家の収入源としては
「ねえアイリス、お芋がお皿にそのまま乗っかってるんだけど、これ、火とか通したの?」
「おひしゃまで、あっためまちた!」
「え?」
「ほっかほかだよ!」
「……あ、お日様の下で、温めたのか。ハハハ、その発想は、なかったな〜」
茹でてあっためてほしかったな……どうすれば、彼女に茹でる必要性を、理解してもらえるだろう。
「よしアイリス、ジャガイモのサラダの作り方を教えてあげるよ」
「え?」
「ちょうどあったかいお芋があれば、作れる料理なんだ。アイリスもサラダくらい作れるようにならなきゃな。お前も好きだろ? お芋サラダ」
べつに日光で温めなくても作れるんだけど、アイリスの努力は無駄にしないでおこう。
アイリスは僕の突然の提案に、ぽかーんとしていたが、よほど退屈していたのか、目を輝かせて黄色い声をあげた。
「うん! おいもつぶしゅの、アイリシュがやる〜!」
「それじゃあ、お庭から大きな石を持ってきてください」
「は〜い!」
「お兄ちゃんは卵を採ってきます」
「はい! おねがいちまちゅ!」
椅子から飛び降りて、庭へと駆けて行くアイリス。
ジャガイモだけじゃ具が寂しいから、裏庭に干してる川魚の干物を細切れにして混ぜるか。
サラダのつなぎは、いつも生卵だ。裏庭の小さな鶏小屋から、卵を採ってくることにした。雄鳥が猫にやられちゃったから、ひよこが生まれないんだよな……。なんでうちの領土には、家畜がいないんだろ。うちの領民、こんなジャガイモと野菜だけで、よく生きてるよな……。兎とか、川の魚とか、どこかで捕ってるんだろうけど。
台所の勝手口から、裏庭へと下りて行く。僕の姿を発見した雌鳥たちが、卵を取られてなるものかと鳴き喚く。すまない、鶏たち。
腹ごなししたら、今後の計画も考えないと。伯爵が住んでいる住居を、地図で探さないとな。我が国の陛下が治める王都に、一軒だけ飛び抜けて華美なお屋敷があって、伯爵は普段はそこで生活してるって、父さんから聞いたことがあった。めったに外出をしないとも。
……どこから妹のことを聞いたのか知らないけれど、来月の挙式の話は、あきらめてもらわないと。妹はまだ、よその家庭を支えられるほど成熟していないんだ。
こっちから伯爵様に手紙を送る足は、うちの領土には備わっていない。ここは身分の低い僕のほうから直接行かないと、無礼にあたるだろう。
問題は、王都までの旅費だ……。しかも、アイリスも連れて行かなきゃ。大人が誰もいないお屋敷で、家事もできないほど幼い美少女を、一人で置いてはおけない。
でも、ほんっとーに旅費の工面、どうしよう……僕一人の旅なら、水だけでも少しは耐えられる、けど、アイリスにそんな生活させたら衰弱してしまう。それ以前に、かわいそうでそんなことさせられない!
ツケでなんとかできないかな……ツケができるほど、僕らに信用が残ってるかどうか。ただでさえ、いろんなものを滞納してる状態なのに……僕が作った借金じゃないけど。
信用、信用かぁ……。見せるだけで信用が得られるような高価な物が、この屋敷に、無いわけではないけど……アレを使ったら、もう父さんたちのお墓に顔向けできないし。
うーん、うーん……あ、悩み過ぎて頭痛がしてきた。やばい、禿げるかも。
「おにーちゃま?」
「わ、びっくりした!」
振り向くと、両手で石を持ったアイリスが、裏庭まで降りていた。鶏小屋と、干物の並んだ狭い裏庭に立ち尽くす僕を、心配そうに見上げている。
「どうちたの? おいも、ちゅくらないの?」
「ああ、ごめん。ボーッとしてた」
妹は金色の形の良い眉毛を寄せて、アーモンド型の緑色の目で、そっと睫毛を伏せた。
「アイリシュのせいなの? ごめんなしゃい……」
「なんで謝るんだ。お前は悪くないよ」
「でも、アイリシュがにゃにゃさいに、なったから……アイリシュにおたんじょーびがきたから、マンマもおにーちゃまも、ケンカになっちゃって……」
「そんなふうに思ってたのか。アイリスは悪くないよ。それに義母さんとは、もう仲直りしたんだ」
「ほんちょ?」
「うん、本当。義母さんもお兄ちゃんも、お前が七つになったこと、とっても嬉しく思ってるよ」
……仲直りなんか、してない。向こうは馬車に乗って、どっか行ったし。
それに、謝るのは僕のほうなんだ、アイリス。お前に理解できるように、優しい言葉で我が家の悲劇を説明できるほど、僕は厳しくなれない。
「サラダ、作ろうか」
「うん……」
これは……今日も調味料を奮発して、美味しいものを作ってやらなきゃな。
塩、まだあったっけ……。
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