第2話
「ただいま」
誰もいない真っ暗な部屋に声をかける。すぐに声は暗闇にかき消された。玄関の灯りをつけて、いつまでたっても履きなれないパンプスを脱ぎ捨てる。続いて服を洗濯機に投げ入れる。
お風呂で化粧を落とす瞬間が今の私の一番好きな時間だ。職場でこびりついた表情を洗い流すような気持ちになる。頭からつま先まで、仕事の匂いを落とす。
シャワーを終えて、一服する。これもまた一興。タバコを咥えて、携帯の通知を確認。
見慣れないアイコンからLINEが着ていた。
『○○大学の時ゼミで一緒だった加藤です。さっちゃん、俺の事覚えてるか?年末にゼミで同窓会したいんだけど来る?』
さっちゃんと呼ばれるのは大学以来だ。ゼミの親睦会以来私はさっちゃんというあだ名でゼミ仲間に呼ばれるようになった。加藤が付けたあだ名である。さっちゃんか、むず痒いな。
親睦会後もゼミ仲間とはキャンパスで会うと挨拶するくらいの関係で留まり彼らとつるむことはなかった。今更、同窓会なんて行く気になれない。
『加藤くん、久しぶり!元気?年末ゴタゴタするから、ちょっと行けるかわからないなぁ』
当たり障りのない返信をする。すぐに既読がついた。あ、痛い。肺が痛む。煙をため息と一緒に吐き出す。
『覚えられてないかとwwみんな忙しいだろうし、無理しないでいいから。てかさ、さっちゃん大学卒業してから連絡とれなかったから焦ったけど、南野がLINE知ってて助かったww連絡がギリギリになってごめんね(^_^;)』
南野とはゼミの女の子だ。いつでも集まれるようにと全員のLINEをきいていた。しかし、一度も彼女が集まろうと呼びかけることはなかった。私は会うことないだろうと思って削除したのだけど。
『そうなんだね。南野さんかぁ。懐かしい笑笑』
特に懐かしむ思い出はない。それから、私は加藤と卒業後のことを話し合った。
職場と両親兄弟以外でLINEすることがない生活に慣れていたため、加藤とのやり取りは新鮮に感じられた。
彼が卒業後、介護の道に進み介護福祉士の資格を取ったこと、なんだかんだで介護にやりがいを感じていること。私は止まっていた加藤の時計を現在の加藤が調整しているように感じた。
私は自分の人生をどう振り返るべきか。大学卒業後は就職先が決まっていなかった。
語るにたるものがない。実家に帰るも、引きこもりがちになった私。やっと重い腰を上げて就いた清掃のバイトを半年で辞めた。
今の仕事に就いたのは三年前。母親が見つけてきて無理やり受けさせられた。クリーニングチェーン店の事務。事務職に興味もなければ何をする仕事かもよくわかっていなかった。追い出されるように一人暮らしを始めて今に至る。私の人生は惰性だ。死ぬ理由がないから生きている気がする。
「幸子って名前の割に幸薄いよね」
みさきの言葉がよぎる。
惰性だもん、仕方ないね。
一通り話が落ち着くと、加藤から予想外の誘いをうけた。
『さっちゃん、俺クリスマスにライブするんだけど来る?久しぶりに会ってみたいしw』
あ、痛い。また肺が痛む。
テレビだけが賑やかな部屋。クリスマス特番の予告を繰り返し流している。そういえば、加藤はフォークソングサークル出身でバンドを組んでいたな。まだ続けてたんだ。なんて返したらいいんだろう。断ることはできたが、断る理由はなかった。クリスマスか。一人の聖夜に慣れた私は今更祝う気にもなれない。呆気なく終わるなら始める意味もない。でも、始まりは待ってくれない時もある。そんな気がする。過去への言い訳を探しながら『いいよ』とだけ打って返信した。
仕事終わり、帰路とは反対方向の電車に揺られ、加藤のライブが行われるというバーに向かった。本当は落としてしまいたかった化粧を直した顔が車窓に写る。私の感覚よりいくらか年老いて見える私がそこにはいた。
降りたことのないひっそりした駅で降りる。
ライブが行われるバーは駅から徒歩五分とかからない。駅前は街路樹に電飾が括りつけられ、色とりどりに点滅していた。クリスマスに疎遠だった同級生のライブに行くなんて思いもしていなかった。ライブに行くこと自体が初めてだ。学祭に参加したことがなかったから加藤がバンドで何を担当しているかすら知らない。私はどこか非日常の空間に身を置きたかった。
人間関係を諦めていたつもりでいたが、目の前に転がるとつい手が出てしまう。加藤に何を期待しているか私にも分からなかい。大学時代に避けた関係をこの目で確かめたかったのかもしれない。
ライブ会場であるバーは三階建ての小さなビルの二階。店内に椅子がいくつか並べられているのが窓から見えた。並んだ椅子の前には楽器やアンプなどの機材が置かれていて何人かの男女が談笑している。入っていいのか分からず、ウロウロしていると、背後から声をかけられた。
「おお、さっちゃん!ほんとに来てくれた!」
振り向くとタバコをくわえた加藤がいた。大学時代と同じよく焼けた褐色の肌、よりがっしりとした印象の体つき。記憶の中の加藤よりゴツゴツとした見た目になった。
「俺でかくなったでしょ!」私の様子を察してか加藤は豪快に笑った。
「久しぶり」
久しぶりに会う同級生に見せる表情を持ち合わせていない私は目を合わせられなかった。
「てか、仕事だったのに来てくれたん?ごめん!」
「大丈夫、私も久しぶりに会ってみたかったから」
会ってみたかった。私から出た言葉とは思えなくて思わず脳内で繰り返す。
「さっちゃん変わんねぇな」
まじまじと私を見る加藤に俯いて笑う。加藤は変わっていなかった。あの時と同じ表情と言葉が一致している。私も変わっていないのか?鏡に映る顔はいつも想像より年老いているのに、加藤には変わらない私がいるらしい。本当に変わっていないのかもしれない。四年で卒業することしか目的がなかった大学で、目的通り四年で卒業しただけ。仕事があるから、毎日職場と家を往復している現在と何ら変化はない。時間だけが過ぎた、それだけ。
加藤に導かれ、バーに入る。カウンターでお金を払うと、言われるがままに席についた。
加藤が準備があると言って裏にはけてしまうと、途端に居所の悪さを感じた。
私の他に席に座る人はこのようなライブに慣れているのか、落ち着き払っているように見えた。
仕事の時の私と家族の前の私はすぐにそのための表情という仮面をつけたが、初めての空間ではいつも表情が分からない。
思えば、物心がついた頃から表情と感情にズレを感じていた。楽しい時の顔、悲しい時の顔、悔しい時の顔、どの表情が正しいのか周り人と表情とすり合わせをする必要があった。常に嘘をついている気がした。周りからは嘘つきと影で言われていると思い込み、できるだけ笑顔でいようと務めた。
笑顔を責める人はいない。高校で初めて出来た彼氏。彼が告白してくれた時も愛の言葉に返す表情が分からず笑顔を返すのが精一杯だった。困ったら笑うのが私の悪い癖。「笑顔が好きだ」と言ってくれた彼に私は最後まで本当の笑顔がわからず罪悪感が寄り添った。
ライブは三組のアマチュア歌手が参加していた。加藤のバンドは三番目。私は加藤のバンドの出番が来なければいいと思った。彼を知ってしまうのが怖い気がした。逃げたい。
最初の出番のシンガーソングライターを名乗る女性が悲しい恋の歌を歌っている。線の細い悲しい声。私は引きつった笑みを浮かべているのではと不安になった。
そうだった。あの親睦会で初めて加藤と会話した時も私は逃げ出したかった。きっと、醜く引きつって顔していたかもしれない。彼の嘘のない表情が怖かった。
「幸子さんだから、さっちゃんでいい?」
ありきたりか?と意地悪っぽく笑った加藤。
私は加藤の笑顔が恐ろしく、笑うしかなかった。近くにいた南野が「私もさっちゃんって呼ぶ!」と言って割って入った時、少し安堵したのを覚えている。ああ、何年も前のことなのにこんな形で蘇るのか。恐ろしい。
気づくと二番手のギタリストの弾き語りが終わり加藤たちの出番だ。加藤のバンドのメンバーが各々の立ち位置につく。
加藤はドラムを担当しているようだ。私は音楽に無知だ。何を基準に良い音を判断しているか分からないが、彼らの中にはもう口で話し合うこともない決まり事があるのだろう。
互いに目配せをして、ドラムの加藤が合図をすると演奏が始まった。
「今日は来てくれてありがとうな。どうだった?俺らの歌」ライブ終わりに私は加藤とバーの外に出て夜風を浴びていた。
「かっこいいね」
それ以外に感想らしい感想が出てこないのは、私の語彙力の問題というより、戸惑いが感情を支配して私を離さなかったからだ。
私は加藤の表情に嘘がないことに恐怖を抱いていたはずだ。しかし、今は加藤が私にだけ嘘をつかない人だったらいいのに突飛なことを考えをしていた。かっこいいね。頭で言葉を反芻する。
「だろ?」と冗談めかして笑う加藤。しかし、冗談で言っていない自信が加藤からは感じられた。私は思わず笑顔をつくった。
どうして、彼はこうも正直に言葉通りの態度ができるのだろうか?みんなが楽しそうだから笑い、悲しさそうなら悲しみ、みんなが怒る時に私も不満を口にした。楽しくなかったわけでも、悲しくなかったわけでも、憤りを感じなかったわけでもないが、それを現す術が私には分からなかった。
「ライブまた見てみたいな」
素直な気持ち。でも、言ってはいけない言葉を言った気がした。
「ほんと?今度ライブする時また声かけるわ!」
加藤は言葉通りに喜んでいた。私の言葉に喜ぶ加藤。加藤を慈しむ私に戸惑う。もう二十二時。明日も仕事だったが、夜がもっと続けばいいと思った。私はまだわからなかった、加藤に何を期待していたのか。ただ、彼に恋をするには充分なだけ彼のことを何も知らなかったということだけは確かだ。
家に着いたころには日付が変わろうとしていた。ベッドで仰向けになりながら、なぜ大学時代に加藤ともっと関わらなかったのかと後悔していた。加藤のことを思うと私はすべてが見透かされて心が裸にされている気がした。
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