今日も私はバスタオルを忘れる

弓月ワタル

今日も私はバスタオルを忘れる

「あ、」

 またバスタオルを出すのを忘れた。今日変えたばっかりの、甘いボディーソープの香りに包まれながら、私は暗澹たる気分になった。

 ボタボタと髪から滴り落ちる雫が、フローリングを濡らしていくのを憎たらしく思いながら、私はつま先立ちでなんとかバスタオルの入ったカラーボックスの前までたどり着いた。綺麗に掃除しているはずなのに、濡れた足でフローリングを踏むと、汚れとか埃とかがくっついて汚れていく気がする。バスタオルと髪を拭くタオルを引っ張り出して、急いで洗面所に戻る。

 洗面所でようやく髪を拭きながら、私は大きくため息を吐いた。ここ一週間で、忘れずにバスタオルを出せたのはたった二回。後はずっと敗北続きだ。一週間前までは、バスタオルのことなんか気にしなくても良かったのに。お風呂場にまでわざわざ持って行ったのに、くだらない企業のLINEしか受信しないスマホをにらみながら、もう一度ため息を吐く。あの人が来る前はどうしていたっけ。自分でちゃんと、バスタオルを出していたはずなのに、もうその生活が思い出せない。


「皆川は本当、伊野さんに甘やかされてるよな」

 とは、同学年の日下の言葉だ。私も伊野さんも日下も、同じ写真部の部員だ。

 写真部、といったって、ちょっとお出かけして写真を撮るだけで、その後の飲み会の方が本命みたいな、ゆるい部活。スマホしか持ってない部員も多い。私だってそうだ。入学したとき、「君可愛いからモデルもいけるよ」なんて言われて、まあそうかも、と思いながらコンパに行って、なんとなく性に合ったからだらだらと在籍している。

 そんなだらだらとした部活の中で、きちんと写真を撮っている珍しいタイプの人が伊野さんだ。二つ上の、教育学部生。必修授業も多いし、実習だってあるのに、まめにコンテストとかに写真を送っている。何度か佳作くらいの賞は取ったことがあるらしい。その伊野さんは、本当に私に甘い。


 入部してまもなくの、別の大学との合同コンパの時だった。うちの部の人はどこかぼんやりしていて、好き好きにお酒を飲む人ばかりだったが、その日一緒だった大学の奴らは本当にしつこくて、私を酔い潰そうとしているのが見え見えだった。

 内心めちゃくちゃに冷めつつ、愛想笑いだけ浮かべながらのらりくらりとかわしていたが、そのうち、私の前に置かれる酒を、横から飲む人がいるのに気付いた。

「ね、そのお酒光希ちゃんのだよ」

 私の正面に座った男が、へらへら笑いながらそう忠告している。私は頼んだ覚えないけどね。そう思いつつ、目線だけで左の席を見やった。もう酔っ払ってるんだろうか、と思って。

「……女の子にそうやって、むりやり飲ませるの、良くないと……思うよ」

 はっきりとしない、ぼそぼそした声だった。もう夜なのに変な寝癖のついたままの黒いミディアムヘアが邪魔で、表情はうかがえない。空になったジョッキをぎゅっと握りしめたまま、その人はさらにぼそぼそと言いつのった。

「光希ちゃん、まだ一年生だし。何かあったら、大変だから……」

 こんな場には似つかわしくない正論だった。白けた顔をした正面の男はしばらく黙りこくった後、何事もなかったかのように別のテーブルへと突撃していった。

 聞こえていたはずの周りの人も、素知らぬ顔をしている。私たちのいる席だけ、盛り上がっているテーブルから遠く切り離された気がする。気まずいなあ、あと、本当にチャラい大学生ってウェーイって言うんだな……とか思っていると、相変わらずジョッキを握ったままの隣の人が、わずかにうなだれた。

「……ごめん、余計なこと言ったよね。光希ちゃん女の子だし、守らなきゃ、って思って」

「そんな、あの、ありがとうございます。すごい勧めてくるから、どうしていいかわかんなくなっちゃって……ていうか、先輩こそ女の子なんだから、無理して飲んじゃ駄目ですよ」

「はは……ありがとう。でも、私可愛くないから、大丈夫だよ」

 潰されようとしていた私より真っ赤な顔をして、恥ずかしそうに笑った彼女が伊野さんだった。これが私が彼女を認識した初めての日である。結局この後彼女は真っ先に酔い潰れ、私は二次会を断って、自宅に伊野さんを連れ帰り、トイレでげえげえ液体を吐く伊野さんの面倒を見た。翌日平謝りする彼女から聞き出したところによると、普段はカルピスサワー二杯で限界だそうだ。私を助けるために、かなり無理をしたらしい。


 これ以降も、部活で帰りが遅くなれば率先して伊野さんが私を家まで送ってくれたり(彼女自身が家に帰る終電がなくなったので私の家に泊めた)、第二外国語のテストのヤマを教えてくれたり(先生が違ったので全く違うところが出た)、なんとなくしまらないながらも、彼女はいつも私に甘かった。

 どっちかというと同性に嫌われることの多かった私は、ある日天啓のように閃いた。彼女は私が好きなのだ。だからこんなに甘いのだ、と。

「……って思うんですけど、どうなんですか?」

 尋ねられた伊野さんは、釣り上げられた魚のような、絶望的な顔をしていた。カップ麺を意味もなく箸でぐるぐるとかき混ぜながら、伊野さんは怯えた目で私を伺ってくる。

「あの……その、好きっていうのは、ええと」

「恋愛的な意味で私のこと好きなのかなって。違うんですか?」    

「……違わないです……」

 蚊の鳴くようなか細い声だった。なんで、と消え入りそうな声で呟くので、

「私が意味もなく女性に好かれるなんてあり得ないので」

 と答えると、伊野さんはわずかに傷付いたような顔をする。同性に嫌われるのはもうしょうがないのだ。私がすごく可愛いから。そんな、とうに私が諦めたことに伊野さんが傷付くので、なんだか面白くなる。

「ちゃんと言ってくださいよ、私のことが好きだって」

「え……」

 キョロキョロと伊野さんが周りを見渡す。三限の時間の食堂は、そこそこの人の入りだ。ざわざわとした喧騒の中で、ぼそぼそとした伊野さんの声が聞き取りにくい。今日の日替わり定食がアジフライだったので食堂に来たけど、伊野さんと話をするには不向きな環境だった。

「あの、」

「ほら、早く。誰も私たちのことなんて気にしてませんよ」

「…………」

 血の気の引いた伊野さんの顔は真っ白だ。このままどんどん色をなくして、この場から消えちゃいそうだな、なんてちょっと文学的なことを考える。楽単だというから取った英文学の授業を、さっきまで受けていたからかも。

 こっぴどく私に振られる想像でもしてるのかな。周りに言いふらされるかも、とか? 

「いーのーさん?」

「……光希ちゃんのことが、好き、です……ごめんなさい……」

 好き、と言った瞬間、カップ麺の中に涙がポトンと落ちた。かわいいなあ。にんまりとあがる口角を自覚しながら、私はわざとらしいほど明るい声を出した。

「ありがとうございます、伊野さん。嬉しいな」

「……は?」

 伊野さんがガバっと顔を上げる。潤んだ瞳と一瞬目が合って、でもすぐにそらされる。机の上で握りしめられていた彼女の左手を、私は上から両手で包み込んだ。

「ふらないですよ」

「な、なんで」

「私、私のこと甘やかしてくれる人が好きなんです」

 その点、伊野さんはパーフェクトだった。上っ面のご機嫌取りなんかじゃない。私が嬉しそうにしているのを、幸福そのものみたいな顔して見ている。私のわがままを、しょうがないなあって嫌々聞くんじゃなくて、わがまま聞くのが嬉しいって顔をする。最高だ。

「伊野さんは私のこと、すごく良い感じに甘やかしてくれるから、大好きですよ。……両思いですね?」

「りょ、」

 さっきまで真っ白な顔をして消えちゃいそうだったことなんて忘れたみたいに、伊野さんの顔が真っ赤に染まった。


 それからの私たちは、本当に上手くいっていた。四六時中甘やかされたい私は早々に同棲を持ちかけ、伊野さんはまた茹で蛸みたいになりながらも頷いた。

 伊野さんは本当にかいがいしく私の世話を焼いた。私がお風呂に入るのは好きだけど頭を洗うのも乾かすのも面倒だと言うと、一緒にお風呂に入って髪を洗い、自分の髪の毛そっちのけで私の髪に丁寧にドライヤーをかけた。おかげで同棲してから私の髪は前にも増してつやつやで、いつも行く美容室で宣伝写真のモデルを頼まれるくらいだった。

 うるさらになった私の髪を満足そうに眺める伊野さんの髪は、私がドライヤーをかけてあげる。私の長い髪を乾かした後なのでほぼ乾いているけど、それでもオイルを塗ってドライヤーをかければ、いつもそこだけ重力がないみたいにはねていた寝癖はなりを潜めた。聞くと、数年前にドライヤーが壊れてから、買いなおすお金がもったいなくてずっと自然乾燥だったそうだ。何が違うのかわからないカメラレンズにはほいほいお金を出すのに。人の価値観というのは本当によくわからない。

 本当に私たちは上手くいっていた。一年と少しの間ずっと。ほんの一週間前まで。


 多分誰に言っても「私が悪い」と言われるので誰にも言っていないが、本当に私は悪くないのだ。だって、私はずっといつも通りだったから。いつも通り、伊野さんに甘えていただけだ。余裕をなくして、勝手に爆発したのは伊野さんの方だ。

 努力が実を結んだのか、偶然なのかは知らないが、伊野さんの写真が結構大きめのコンテストの三次選考まで通った。就活だなんだで、飲み会に顔を出しはしても写真を全然撮らない他の先輩達と違い、伊野さんは四回生になっても写真を撮っていた。えらいし、すごい。私だってちゃんと、ケーキを買ってきてお祝いした。そこまでは良かった。

 なんでもそのコンテストは最終選考まで進んだら、もう一枚別のテーマで写真を提出しなければならないらしいのだ。まぐれの一枚を避けるためかもしれないが、本当に余計なことをしてくれた。審査のプロなら一枚から実力まではかってほしい。

 その締め切りと、伊野さんの卒業論文の中間発表の日程が被った。また間の悪いことに少し前まで教育実習に行っていた伊野さんは、卒論の進みがあんまり芳しくなかった。

 伊野さんはどんどん余裕をなくしていった。四六時中重たいカメラを首から下げながら、夜遅くまで大学の図書館に残って資料を作っていた。最初のうちは「光希の世話してると落ち着く……」と言って私のことを甘やかしていたが、そのうち晩ご飯も一緒に食べなくなったし、お風呂も一緒に入らなくなった。

 その日は特に伊野さんの帰りが遅かった。私がお風呂から上がり、こんなに伸ばすんじゃなかったな、と水を含んで重たい髪を拭いている時に帰ってきたのだ。

「……ただいま」

「おかえりなさい。サンマ焼いてありますよ」

「ごめん、外で適当に食べてきた……」

 でしょうね、と思う。そろそろ日付が変わる時刻だった。まあちょっと味は落ちるけど、サンマは明日の朝食べればいいや、と思い直す。

 伊野さんはといえば、着替えもせずにパソコンに向かっていた。左側に写真のスライドショーを出しながら、右側でWordをいじっている。器用じゃない伊野さんにはそういうやり方は向いていないと思う。案の定、何度もはっとした顔でスライドショーを巻き戻したり、バックスペースを連打したりしている。

「ねえ伊野さん、卒論なんて最終出しさえすればいいんですし、中間発表はもう諦めたらどうですか?」

 百パーセント善意の発言だったが、伊野さんはそうは受け取ってくれなかったらしかった。何を言われたか理解できない、という顔をした後、泣き出す寸前の子どもみたいに顔をくしゃくしゃにして、

「そんなことできるわけない! 無責任なこと言わないでよ!」

 と怒鳴った。

  キン、と耳鳴りがする。全然、いつものぼそぼそした伊野さんの声じゃなかった。こんな通る声、出せるんじゃん。ぼう、とした頭で、そんなことを考えた。

 自分の出した大声に驚いた、みたいな顔をした伊野さんは、みるみるうちに顔色をなくした。

「伊野さん」

 呆然としたまま、とりあえず私は伊野さんを呼んだが、その声を聞いた伊野さんは熱いものに触れたみたいにびくりと身体を震わせて、

「……っ!」

 何も言わずに部屋を飛び出していった。


 それからもう一週間である。伊野さんは一度も家に帰ってこない。

 確かに表面張力でなんとか保っていたみたいな状態に、石を投げ込んだのは私かもしれない。でもあれは何にもしなくたって後数日中に爆発していたし、もし爆発していなくても、写真も中間発表どちらも中途半端な結果で終わっていたに違いないのだ。

 大学でも伊野さんは見かけない。というか、私が伊野さんがいそうなところを避けて生活している。最初のうちは私だって怒っていたし、最近は、もう一度あんな風に伊野さんにびくつかれたら、場所もわきまえずに泣きわめいてしまいそうだから。

「……」

 一向に乾かない髪をかきむしりたくなる。でもしない。うるさらの私の髪を伊野さんは気に入っていたから。傷んだら困る。でも、伊野さんが乾かしてくれないから、ちょっと毛先がパサついてきてしまった。やっぱりドライヤーは苦手だ。

 ヴヴ、とスマホが震える。ビーチフラッグみたいな早さで手に取る。日下からだった。『明日の飲み会来る?』知るかボケ。

「あーーーーーーーーー……」

 ギリギリ、伊野さんへの怒り、みたいなもので保っていた心が今完璧に折れた。連絡が欲しい。会いたい。甘やかされたい。私を甘やかして伊野さんなしでいられなくしたのは伊野さんなのに、なんでいないんだろう。

「伊野さーん……」

 まだ泣いてはいなかったはずなのに、声はなんだか涙声だった。謝るなら許してあげようと思っていたけど、もう謝ってくれなくてもいい。なんなら言い過ぎたって謝ってもいい。別に言い過ぎてないけど、それでも。もう一度伊野さんに甘やかされるためなら、なんでもできる気がする。

 着信拒否にされてる、されてないけど出てくれない、ガチャ切りされる、など、ショックを受けそうなことを事前シュミレーションしてから、あらためてスマホを手に取った。祈るような気持ちで着信履歴の一番上、『伊野 めぐみ』をタップする。

 ル、と呼び出し音が一瞬鳴ったと思ったら止んだ。まさか切られた? と絶望的な気持ちになったが、電話の向こうからは微かに呼吸音が聞こえた。

「……伊野さん……?」

「……はい……伊野です……」

 小さな小さな声だった。伊野さんは答えたきり、また黙り込んでしまった。何か、何か言わなくては。

「髪が、」

 違う、こんなことを言いたいわけじゃないのに。でも、ちょっとでも無音になったら、取り返しの付かないことになりそうな気がして、言葉が止められない。

「髪が、全然乾かなくて。バスタオルもずっと出し忘れてて。ご飯も余って、ベッドもお風呂も広くて、だから、だから私、」

「光希、」

「私は伊野さんがいないと全然駄目なのに、伊野さんは私がいなくて平気なんですか」

 なんでこんな責めるみたいなこと言ってるんだろう。性格が悪いからかな。泣きたいような笑いたいような妙な気持ち。湯冷めして身体は冷たいのに、顔だけが燃えているように熱い。

「平気じゃないよ……っ」

「え、」

「全然、平気じゃなかった。待って、あの、今ほんとに、側まで来てて、ちょっとだけ待ってて」

 プツン、と通話が切れる。そして、本当にすぐ、玄関のドアが開く音がした。バタバタと足音がして、ガラガラッと音を立てて、勢いよく洗面所の戸が開けられる。

「伊野さん……どこにいたんですか」

「その……マンションの、エントランス……。帰る勇気出なくて、でも、会いたいし……どうしようって思ってたら、電話来て」

 走ってきたのか、伊野さんは顔をほてらせ、うっすらと汗をかいていた。髪はぐしゃぐしゃでまた変な寝癖が付いている。嬉しそうな、困ったような、情けない顔。いつも通りのぼそぼそしたしゃべり方に、無性に安心する。

「写真と……中間発表は?」

「うん、中間発表は……その、先生とゼミ生に頼んで先送りしてもらった。写真もなんとか、送れたよ……」

「そ、ですか……」

 ほっと息を吐く。伊野さんはやっぱり、ちゃんとしている。

 洗面所に沈黙が満ちる。薄手のコートをまとった伊野さんと、バスタオル一枚の私が見つめ合っている。変なの。おかしくて、ふへ、と気の抜けた笑い声が漏れた。

「一緒にお風呂入りましょうよ、伊野さん。……湯冷めしちゃった」

 ぐ、と伊野さんのコートを引っ張りながら言う。伊野さんは、笑おうとして失敗した後、ぎゅうと私を抱きしめた。肩に、あたたかな雫が落ちる感触がした。  

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今日も私はバスタオルを忘れる 弓月ワタル @healandkiss

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