第11話

 昔から、浮き沈みの激しい人生を送ってきたものだと柊芳枝は思う。小さい頃から母は代わる代わる父親と名乗る男を家に連れ込んでは、子どもの見ている前でも構わず体を重ねていた。自室なんてものを持ってはいなかったらから、男女の汚い関係を見たくはなくて、トイレに籠ったり外へ出たりして自身を守り続けていた。夜中の時は薄い布団にくるまり、耳を塞いで聞かないふりをしていた。本当の父親は知らない。母も話さなかったから、きっと今まで連れ込んだ誰かだろう。同級生達からは、母が次々に違う男を家に連れ込む姿を見かけたりしているからか、〝娼婦の子〟と蔑まれ、友達になってくれる子は一人として居なかった。教師でさえも例外ではなく、見る目、接する態度が他の生徒よりも違っていて、まるで汚らわしいモノを見ているようだった。

 中学一年になったある日、母が買い物に行っている間に新しい父親に守ってきたを無理矢理、奪われた。汚された姿を帰宅した母に見られ、唯一の肉親であったはずのに助けを求めるも、逆に激昂され激しい暴力に襲われた。純潔を奪った父親は、芳枝わたしが誘ったのだと嘘を吐いた。

 次は、居場所が無くなった。相談できる場所もなければ、人も居ない、知らない。衣食住はあったが、成長期の子どもにはキズを与えるだけで、足りない、満たされない。痛みと傷みは続く。代わる代わる来る新しい父親達は彼女の言いつけで手を出さなくなったが、それでも隙を見て優しい声を掛けられたものならば、どこからか聞いていた彼女からの暴力が芳枝わたしに襲い来る。耐えて、堪えて、たえて――けれども、既に限界が近づいていた。

 ある日、また新しい父親がやって来た。ふくよかで、どこか良い匂いのする今までに知らないタイプ。家に入るなり彼女とそういったことはせず、何気ない表情で食べ物を買ってきて欲しいと頼んだ。彼女はこちらを睨み牽制しつつ、渋々と一人、出かけて行く。部屋の中で二人きりになった。

 嗚呼、まさか――悪夢の再来かと怯えた直後、父親は突然、告げた。


「逃げなさい」


 その言葉が、笑顔が、最初は信じられなかった。逃げようとするも腕を掴まれ、後退るのを阻まれる。


「必ず助けてやるからな」


 そう続けて、綺麗な腕時計を光らせながら、自身の財布を差し出した。強かな瞳、けれども、朗らかな温かい笑顔。今まで誰も〝助ける〟とは言ってくれなかった。卑しい声で、目で、名前を呼んでいたのに、だけは違った。


「生きろ」


 その言葉が後押しとなり、涙を堪え、差し出されたものを奪うようにして受け取ると、着の身着のまま家を飛び出した。

 その後――彼女がどうなったのかは知らない。

行く場所もなく、家から少し離れたコンビニの前に座り込んでいたところを、偶然か、それとも探してくれたのか、救い出してくれた彼が見つけてくれた。

 手を引かれるままにやって来たのは彼の実家。母親らしい高齢の女性が何も言わずに、まずは風呂に入れてくれた。型は古いもののまだ着られる綺麗な服を与えてくれて、温かいご飯も食べさせてくれた。何があったのかは聞かれなかった。綺麗になった姿を見て、心の整理がつくまで居ても良いと頭を優しく撫でてくれた。どうして優しくしてくれるのか、どうして赤の他人の面倒を見てくれるのか、助けてくれたのか――……心の傷が少し癒えた頃、一人暮らしを始めると告げた時も、彼とその母親は語ってはくれなかった。代わりに小さなアパートとしばらく暮らしていけるお金を握らせてくれた。餞別にと、女性から昔着ていたという年代ものだがブランド物のバッグとワンピース、パンプス、そしてリクルートスーツ一式が贈られた。

 彼等と過ごした時間は短かったが、とても幸せだった。

本当の家族を知れた気がする。

 けれども、一人暮らしを始める以上、彼等を頼ってはいけない。

 彼女のように決してならないよう、けれども、一日で多くお金を稼がなくては。年齢を隠せる履歴書の要らない仕事を探していた際、たまたま目に付いたのは水商売の看板が並んでいるビルの張り紙だった。


『履歴書不要、面接だけでOK 希望の方はこちら――』


 そうして――働く場所を見つけた。


「アンタ、ハタチだっていうけど、本当はまだ16にもなってないだろ?」


 年齢詐称していた件については面接時に一発でバレてしまったが、包み隠さず今までの出来事を話すと、互いに約束を守れるなら、とのことで見逃してもらい雇ってくれた。面倒見の良いママは口は悪いながらも良い人で、接客のいろはや飲みなれない酒の嗜み方を丁寧に教えてくれた。煙草だけはどうしても身体が受け付けず、吸うのはやめときな、と練習用に買った分はすべて没収されたが。

 店に入って早一か月――その日はヘルプで来るはずの子が体調不良で来れず、ママと二人で店を回していた時、〝あの人〟が来た。

 声を掛けられ、目があった瞬間、何かが全身を駆け抜けた。雷に打たれたことはないが、打たれたとしたなら今がまさにそういう感じなのだろう。頭からつま先までビリビリと全身を駆け抜ける衝撃。

 あの人――千葉夏彦から視線を外せない。呼吸が、心臓が、自身の全ての時間が止まったような感覚。彼もまた同じように動きを止めて芳枝わたしを見ていた。否、視線を外せなかったようで、瞳の中にしっかりと姿を映す。

 それからはまるでドラマのような、映画のような急な展開だった。連絡先を交換したものの、けれども離れたくなくて、彼も同じ気持ちだと言ってくれた。閉店まで居てくれた後、彼に寄り添って迎えにと呼んだタクシーに二人で乗り込む。ホテル街の入り口でタクシーを降りて、それが当然のことのように近くのホテルへ入り、短い一夜を過ごした。

 最初、触れられた時は恐怖が蘇ったものの、彼は心が落ち着くまで優しく抱きしめてくれた。ずっと汚らしいモノだと思っていた行為は、まるで天にも昇るような気持ちにさせてくれた。あの時、汚されたことさえも忘れられた。彼女もこんな気持ちだったのだろうか、と一瞬だけ考えたが、絶対に違う。熱のこもった息を吐きながら、鼻にかかった自身のものとは思えない声を上げながら、ふわふわチカチカと点滅し始める頭で力いっぱい否定する。

 こんなにも気持ちが良いのは、心が満たされるのは、〝彼〟だから。彼以外と肌を重ねても、決して同じようにはならないだろう。

 好き、以外の感情しかなかった。

 愛している、以上の言葉が見つからなかった。

 心は彼で埋め尽くされ、支配され、何も考えられなくなったのだ。

 何度か逢瀬を重ねたある日、彼の口からすまなさそうに、本当は妻が居ると聞いた。最初は罪悪感に駆られたが……それでも良い、と思った。一緒に居られるのなら、愛し合えるのなら、妻が居ようが何だろうが、良かった。


「奥様のこと、愛してる?」


 嫌な質問をしているのはわかっていたが、聞かずには居れない。彼は少し困ったような色を浮かべて、程なくしてぎこちなく頷く。けれども、一呼吸開けてからぽつりとこぼした。〝彼女は完璧すぎるんだよ〟と。そんな妻に合わせる為に、自身を偽るのも疲れると添えた。


「じゃあ、わたしは?」


 悩まずに、柔らかな表情で紡いでくれた。〝芳枝と一緒だと自分を取り繕わずに済んで楽なんだ〟――……嗚呼、ならばもう、答えは出ているじゃないか。

 別れなくて良い。

 本当の自分へ一時的に戻る為に、会いに来てくれるのならばそれだけで良い。

 芳枝わたしあなたと一緒だと、取り繕わずありのままの姿で居られるのだから――。


「あなたには最高の罰を、彼には最愛の罪を差し上げましょう」


 ふと、瞼を開けると眼前には彼の妻――千葉葵子が居た。にこりと微笑むその姿はまるで可憐な花のようだ。思考を麻痺させるかのような甘い香りが鼻腔を擽る。今更、謝罪の言葉を述べたところで許してくれないのはわかっている。だから、敢えて睨み返してやった。


「それでもわたしは、彼を愛しています」 


 葵子は驚いたように目を丸くするも、すぐに両口角を上げる。


「なら、一緒に堕ちましょう。何処までも、どこまでも、ドコマデモ、罪深き私達の居場所へ……深く、ふかく、フカク――……」


 最後の辺りは何を話しているのかさえ聞き取れない。葵子の唇からごぽりと赤い液体が伝い落ちる。止めどなく血が零れ落ちるも、葵子は気にも留めない様子だ。鉄の臭いが立ち込め、思わず顔を顰める。葵子の白い手が芳枝の首に巻き付いたが、恐怖はない。むしろ、負けてたまるかという意志だけが占めていた。

 葵子の手に力が入ろうとした刹那、突然、身体が上に引っ張られた。反動で葵子の手は解け、言葉になっていない声で〝待って〟と告げる。何気なく振り返るなり、大きく瞳を開けた。

 夏彦の姿が、そこにあった。

 名前を呼ぼうとするも引き上げられる力が強く、一瞬のうちにすれ違う。腕を伸ばすも、頭を横に振るだけだ。二人は底の見えない闇へ沈んでいくが、距離は縮まらない。葵子は声を上げて、けれども穏やかな表情で夏彦へ腕を伸ばし続ける。しかし、夏彦は応えず再び芳枝を見上げた。

 眩い何かに包まれた時、芳枝わたしにだけいつも見せてくれるあどけない笑顔と共に夏彦は言った。


『生きろ』


 言葉が、笑顔が、愛した日々の記憶が、心の中に沁みて、満ちて、広がっていく――。


 目を覚ますと、見慣れない天井だった。体には力が入らず、頭はぼんやりとしている。何度か瞬きを繰り返し、眼球だけを動かす。


「――あらっ」


 見覚えのある人物と目が合った。


「……ま、ま……?」


 唇を動かし名前を呼ぶも、掠れて途切れ途切れにしか発音できない。話すというのはこんなにも労力を必要としただろうか。それに、何故こんなにも口の中が乾ききっているのだろうか。体も重く、時に軋み、全く動けない。

 見覚えのある人物は、芳枝が勤めているスナックのママだった。ママは驚いた顔をしたものの、すぐに安堵の色を浮かべる。ナースコールに手を伸ばし、看護師さんが来るまでちょっと待ってな、と告げてオレンジ色のボタンを押す。

 思考はまだ上手く働かない。けれども一つだけ、どうしても確かめたいことがあった。


「ママ……夏彦さん、の、事件……」


 ふと、ママの表情が曇るも軽く頭を左右に振り寂し気な笑みを浮かべた。


「今は自分のことだけを考えな」


 ママの言葉と同時に足音が近づいて来る。高い声を響かせた女性看護師が、どうされました~? と扉を開けるなりハッと目を丸くした。すぐに先生を呼んでくると残し、慌ただしく一旦部屋から出て行く。

 トラバーチン模様の天井を再び眺め、深く息を吐いた。脳が覚醒しだしたのか、全身に痛みが走る。けれども胸の奥だけは、また違った別の痛みにぎゅっと締め付けられるようだった。ママの表情に、声に、全てを察した。

 葵子は夏彦と共に、別の世界へと旅立ったのだな――と。


『あなたには最高の罰を、彼には最愛の罪を差し上げましょう』


 鮮明に蘇り脳内に響く葵子の声。

 嗚呼、全く最高の罰を残してくれたと思う。

 夏彦の居ない世界に生きていても、どうしようもないのだから。

 不意に涙の膜が張る。瞬きすれば、温かい雫がぽろぽろと肌を伝った。隠しきれない嗚咽を漏らす芳枝を眇め見るなり、ママは何処か遠くを見つめてぽつりとこぼした。


「アンタもあたしも、つくづく男には恵まれない女さね」


 止めどなく零れ落ちる涙を、ママは指先で丁寧に拭ってやった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る