第10話

 千葉葵子は部屋の角に膝を抱えて座り、消灯された部屋でぼんやりと天井を眺めた。

 この二、三ヶ月、夫の千葉夏彦の様子がどうも変だった。泊まりの仕事も増え、けれどもどこか嬉しそうな様子で、泊まりは嫌だと言うぼやきも最近は聞かない。だからふと、心の中である考えが過った。

 嗚呼――他に好きな人が出来たのだな、と。

 そこからは自分でも驚く程フットワークが軽かった。ある日の朝、また泊まりの仕事だと残していつもより多い荷物を持って出かけた夏彦の後を密かに追った。会社のある方角とは真逆の電車に乗り、夏彦の乗っている車両の隣の車両からその姿を覗く。土曜日だからか、平日より人の数は少ない。けれども、座席は既に老若男女問わず座り埋まっていた。立っている人の数も多く、夏彦が顔を上げれば壁にして隠れた。嬉々とした色でスマートフォンを見つめ操作している夏彦を横目に、何気なく自身のスマートフォンを最小限の物しか詰めていないショルダーバッグから取り出す。誰からもメッセージは入っておらず、壁紙と時刻、そして今日の日付と気温だけが液晶画面に表示されていた。

 約十分程度電車に揺られ、降りたことのない駅で夏彦は下車した。葵子も続き、彼の背中を見失わない距離間で静かに後を追う。人通りの少ない道路、程なくして目的地にたどり着いた。古い二階建てのアパート。一階の部屋の扉の前には、男性物のよれた下着と白いTシャツが隠さず干されている。とある部屋の新聞受けは満杯の状態で、チラシやらなにやらが地面に落ちていた。軋む外階段を上がり、夏彦は真っ直ぐに二階の奥の部屋へ向かう。その部屋の住民は足音だけでわかったのか、扉を開けて出迎える。

 葵子よりも小柄な女性だった。

 二人は扉の前で軽く抱き合うと、すぐさま部屋の中へと消えた。物陰に隠れて遠くから見ていたから、はっきりとした女性の姿までは見て取れない。二人が部屋の中へ消えた後、足音を立てないようにその部屋の前まで歩を進めた。203号室の隣に「柊」と厚紙に手書きで表札が書かれてあった。それから――しばらくしないうちに、夏彦が平然と家に帰宅して風呂に入っているうちにスマートフォンを覗いて、新着メッセージと表示されている名前を見る。「芳枝」と記されていたので、女性のフルネームは「柊芳枝」と知った。

 いつか二人で旅行にでも行く計画を立てているのだろうか、楽しそうで明るい文面がポップアップされている。指でそっとスリープモードに切り替え、もとの場所にスマートフォンを仕舞った。

 葵子の中で何かがぐるぐると渦巻きだす。それは、夏彦と芳枝が抱き合い部屋に消えた日から次第に大きく、深くなり、頭が変になってしまいそうだ。

 夏彦が大好きなのに、胸の奥では大嫌いににくらしく思える。

 夏彦を愛しているのに、心の中では憎らしいだいきらいと感じる。

 好き、嫌い、すき、きらい、スキ、キライ、愛している、愛していない、あいしてる、あいしていない、アイシテル、アイシテイナイ……こんなにも、深く、ふかく、フカク、私は貴方を愛している憎んでしまったというのに。

 葵子は夫である夏彦の姿を思い描いた。心の中で何度も名前を呼ぶと、次第に真っ暗な空間に夏彦の姿が実体化される。そして、気がつけば向かい合っていた。


「こんばんは」


 挨拶すると夏彦は笑い、葵子もつられて微笑んだ。


「会いに来てくれたの?」


 問いかけるが返事はない。しかし、気にも留めずに続ける。


「そうだ、夏彦さん。私、あなたに謝らなくちゃいけないことがあるの」


 夏彦は小さく首をかしげる。


「あの時、初めてあなたを傷つけてしまったわ。しかも刃物で……ごめんなさい、夏彦さん。痛かったでしょう?」


 頭を下げると、夏彦は目を伏せた。嗚呼怒っているのね、と口の中で呟きながらも、でも、と繋げる。


「私、後悔なんてしていませんわ」


 どうして? と尋ねるように、夏彦は葵子を見る。


「夏彦さんはもう居なくなってしまったけれども、私の中で生きている。血となり肉となり骨となり……私と一つになって、生きているのですもの」


 そう告げると、葵子は満面の笑みを浮かべてあの日、あの時を思い出した。

 十八時すぎ、家に帰ってきた夏彦はスーツの上着と荷物を葵子に預けるとすぐに風呂へ向かった。風呂に入っている最中、和室にあるクローゼットの前で明日の用意を代わりにする。その時、スーツの上着に入っていた、お揃いのうさぎのストラップをつけた黒色のスマートフォンが震えた。画面には『芳枝』と表示されている。手は無意識に動き、震える指先でロック画面を解除する。芳枝からは『明日はお互いお休みだね。11時頃にいつものホテルで待っています。』とのメッセージ。明日は仕事だと聞いていたが、それも嘘だったのかと小さく息を吐くと、静かにスマートフォンをもとの場所に仕舞う。同時に、頭の中で何かが音を立てて切れたのを感じた。それからは、まるで昔の映画のフィルムのように、一つ一つの出来事が鮮明に思い出される。風呂から上がってきたラフな格好をした夏彦に、明日の準備をしておいたけど一応確認をしてね、と残し和室を後にする。真っ直ぐキッチンへ向かい、戸棚から包丁を取り出すと、電気の光を浴びて刃の部分は鈍い光を放っていた。柄をしっかりと握り、和室へ戻る。夏彦さん、と呼ぶと、どうした? と笑顔で振り向いたが、すぐに表情は強張った。目は、葵子の手の中にあるものに釘付けになっていた。怯えた表情と声音で後退る夏彦に、笑顔で近づき壁際に追いやる。

 ――ずっと一緒よ、夏彦さん。

 満面の笑みを浮かべて告げた瞬間、包丁は彼の胸を深くひと突きした。


「今も手に残っているんです。あなたを刺した時の、感覚が」


 両手の平を見つめながら葵子は言う。ふいに、パタパタと何かが落ちた。目元を拭うと、涙であることがわかった。胸がきゅっと締め付けられる。次々とあふれ出る涙を手の甲で必死に拭っていく。


「私、あなたと一つになったつもりだった……。でも、あの時からずっと、心が痛いのっ。いつものように私を抱きしめてくれない、名前を呼んでくれない、頭を撫でてくれない、褒めてくれない、叱ってくれない、一緒に……笑ってくれない……っ」


 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。夏彦はただじっと聞いているだけだ。


「満たされないの。あなたが生きていた時みたいに、私、満たされないのぉっ……!」


 ポロポロと涙をこぼす葵子の体を、夏彦は何も言わずに抱きしめた。頭を優しく撫でられ、ますます涙が零れ落ちる。


「夏彦さん……私、どうすれば良い……?」


 そう尋ねると、夏彦は口を動かし、葵子の耳元で囁く。返事を聞き、少し驚いたが、そっか、と納得したように静かに瞼を閉じた。


「夏彦さん……好き、大好き――愛しています」


 そっと、夏彦の背に腕を回す。


「これからも、ずっと一緒よ……」


 葵子は唇を開き、舌を出すと、歯を立て力いっぱいに出したソレを噛み切った。

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