第6話

 朝四時。仕事帰りにあの人の家の前を通ると、もう深夜だというのにたくさんの人が立っていた。家は青いビニールで隠され、中を窺い知ることは出来ない。報道関係者のものだろうか、似たような車があちこちに無遠慮に止められている。柊芳枝は片手に持っているコンビニの袋を強く握り締めると、家路を急いだ。

 二階建ての1DKアパートに着くと、階段を使って上がる。自室の前に着き鍵を開けて中に入ると、誰もいない部屋にただいまと声をかけた。赤色のピンヒールを脱ぎ、ドアに鍵を掛けて中に入ると、すぐに敷きっぱなしの布団の上に倒れた。枕に顔をうずめ目をつむると、すぐに眠気は襲ってきたが、急いで体を起こしてとりあえずシャワーを浴びることにした。

 鞄等をベッドの上に置き、部屋着と下着を布団の横にある箪笥から出し、その場で着衣をすべて脱ぐと、ひんやりとしている風呂場へ。給湯パネルを付けてシャワーを捻ると、数秒間水が出たあとお湯に変わった。湯を浴びた瞬間、気が抜けたような大きく息を吐いた。

 十分程でリビングへ戻ると、髪をタオルで巻き上げるなり布団の上に寝転がる。コンビニの袋を手に取り、中から朝刊を出して広げた。一面には大きく『美人妻、夫を殺害』という文字が躍っていた。真ん中には帰りしなに通ったビニールで外側を覆われている家の写真と、見覚えのある二枚の顔が映っているカラー写真。ゆっくりと新聞の記事に目を通した。

 書かれている内容はテレビのニュースで言っていたものとほとんど変わらず、捜査はあまり進んでいないようだ。記事の最後は、近隣住民から聞いた犯人の特徴と記者の意見で締めくくられていた。

『「(千葉さんの家は)仲のむつまじい夫婦って感じでした。奥さんはとても献身的で、なんていうか……理想の夫婦像って感じです。二人が喧嘩しているところなんて見たことも聞いたこともありませんでしたし、まさかこんな事件が起こるなんて本当に信じられません(Oさん)」。「私はまだ事件が起きたことを信じられません。私の知っている彼女は、人を殺すような人じゃありません(Sさん)」――何が犯人を狂気に取り立てたのか。謎が謎を呼ぶ事件であることに間違いない』

 犯人である千葉葵子の像を、目を閉じ脳裏に思い描く。腰まで伸びた艶やかな黒髪に、スラッとした体にピッタリとフィットした白のレースワンピースが良く似合う。足元はワンピースと同色のパンプスを履き、花柄の日傘を差している。そこにいるだけで場の空気は華やぎ、人々を甘い気持ちにさせてくれる。芳枝の脳裏に居る葵子がにこりと微笑んだ。


『あなたには最高の罰を、彼には最愛の罪を差し上げましょう』


 急いで瞼を開けた。いつの間にか呼吸は上がり、体を起こして新聞紙を畳床の上に置くと、親指と人差し指で軽く眉間を押さえる。耳には、鮮明に葵子の声が残っていた。思い出したくも無い記憶に、忘れろと心の中で何度も言い聞かす。軽く頭を振ると、タオルを外して百円均一で買ったピンク色のクシで濡れたままの髪を整え、布団に寝転がり再び目を瞑った。


 その日は仕事が休みで昼過ぎまで寝ていた。遅い朝食を作ろうにも冷蔵庫には何もなく、外食するついでに買い物もしようとかと考えた。仕事の時のように化粧は濃くせず、服装もラフなものを着る。髪も、もともと真っ直ぐな方だからヘアスプレーを二、三度ふりかけ、クシでさっと整える。財布とスマートフォンだけを入れた赤色のトートバッグと学生時代から愛用しているピンク色の音楽プレイヤーを持ち、黄色のクロックスサンダルを履く。鍵を外し、ドアを開けて廊下に出た。しっかりと戸締りしたことを確認すると、階段に向かい一階までゆっくりとした足取りで降りる。腹の虫が元気に鳴き、何を食べようかと悩んだ。

 とりあえず駅前に行こうと思った。一階まで降り、ポストの中を覗くも何も入ってはいなかった。音楽プレイヤーの再生ボタンを押し、イヤホンを耳に入れようとした時、マンションの前に女性が立っていることに気づいた。

 腰まで伸びた黒髪に、白のレースワンピースを着て、足元はワンピースと同色のパンプスを履き、花柄の日傘を差している。右手にはスーパーのビニール袋が握られており、綺麗な百合の花が中から出ていた。女性はにこりと微笑む。誰だろうと思いながら小さく会釈する。


「柊芳枝さん、ですか?」


 透き通った声で名前を呼ばれ、はい……、と頷く。


「えっと、どちら様……?」

「ああ、ごめんなさい。私、千葉葵子と申します」


 女性――千葉葵子に、芳枝は体を強張らせた。


「……わたしに何か御用ですか?」


 そう問うと葵子はすぐに頭を左右に振り、いえ、と答えた。


「用と言う程ではないのだけれども……あの人が愛する人を、ひと目、見たかっただけですわ」


 芳枝は息を呑んだ。心の中で、全部ばれている、と呟く。体は震えだし、上手く呼吸ができない。それでも、芳枝は言葉を紡いだ。


「訴える気、ですか? わたしのこと」


 肩に提げているトートバッグをぎゅっと握り締める。だが、葵子の口から出たのは意外な返答だった。


「そんなことしないわ」


 えっ、と思わず目を丸くした。全身の筋肉がふっと軽くなったような気がした。葵子は、その代わり、とまるで太陽のような笑みを浮かべて繋げる。


「あなたには最高の罰を、彼には最愛の罪を差し上げましょう」


 背筋がゾッするのを感じた。葵子から目を逸らすことが出来ず、まるで金縛りにあったかのようにその場から動けない。

 突然、辺りが真っ暗になった。空間はゆがみ、奇妙な音が鳴り響く。瞬き一つした瞬間、葵子が目の前に居た。声を上げようにもどうしてか出せない。白い葵子の両手が、芳枝の首に触れる。まるで氷のように冷たい手が、芳枝の首をゆっくりと締め付ける。やめて、と訴えるにも、葵子は終始笑顔のまま。苦しさで息が出来ない。だんだんと意識は薄れていく。霞む視界の中、芳枝は最後の力を振り絞って声を発した。


「夏彦、さん……っ」


 しかし、ヒューヒューと空気が漏れただけで最愛の彼の名前は紡げなかった。


 目を覚ますと、見慣れた天井がそこにあった。息は上がり、全身に汗をかいている。上半身を起こし、頭を抱えると、何度か深呼吸を繰り返す。脳が覚醒し、ここは現実であり自室だとしっかり認知する。嫌な夢、と咄嗟に呟いた。思い出したくもない先日の出来事――葵子が訪ねてきた日のことを夢に見るなんて思いもよらなかった。被害妄想からか、自分の中にある葵子のイメージからか、現実では起こらなかったけれども首を絞められるだなんて……背筋に冷たい汗が流れる。

 鞄の中でブーブーとスマートフォンが震えている。鞄を手に取り中を開けスマートフォンを手に取ると、液晶画面には「ママ」という文字と電話番号が表示されていた。緑色の通話ボタンをタップし、もしもし、と出る。


『あんた、いま何時だと思ってるの! 今日は早出でしょうっ!』


 と、甲高い声で怒鳴られる。スマートフォンから耳を離し、画面に表示されている現在の時刻を見ると、十六時を回っていた。うわっちゃぁ~、と急いで謝る。すぐに行くと伝えて飛び起きると、慌てて支度を始めた。ヘアスプレーを何度か吹きかけてクシで髪を整える。メイクは店に到着してからすれば問題ない。いつもならもっと高価なものを着るのだが、今日は赤色のワンピースにした。リップグロスで唇に色をつけると、昨日と同じ鞄にスマートフォンを入れて電気を消すなり玄関に向かう。出しっぱなしにしていたピンヒールに足をつっかけ、行ってきます、と屋室に残しドアを開け廊下に出ると、鍵を掛け戸締りをしっかりする。ヒールをしっかり履き直し、早足で階段を駆け下りた。

 しばらく走っていると、運の悪いことに交差点で赤信号に引っかかった。青に変わるまでが待ち遠しい。こつこつとヒールの音を響かせる。大型のダンプガーが前を通り過ぎたとき、芳枝は目を見開いた。反対側の交差点に、最愛の彼が立っていた。何台もの車が通り過ぎるが、彼の姿は消えない。嘘よ、と呟く。彼は微笑み手を振る。芳枝は、無意識のうちに歩を進めた。


「夏彦さんっ!」


 名前を呼び、手を伸ばす。瞬間、横から割れんばかりのクラクションが轟いた。クラクションの鳴った方へ顔を向けたと同時に、ドンッという鈍い音が辺りに響いた。

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