その悲しみは溢れそうな水面の揺らめき


 一週間が経った。


 施設を脱走した直後から今までの記憶を失った桜花は、再び入院することになった。


 桜花は記憶を失っているだけでなく、精神の一部も失っているようで、もはやかつての桜花とは別人となっていた。特に、入院してからは、常に虚ろな瞳で窓の外を見つめているだけだった。もはや最初のころのように宗谷の問いかけにすら、反応しなくなっていた。


 宗谷と千早は、桜花のお見舞いで、病院の待合室に座っていた。


 あの日以来、宗谷と千早は、毎日、病院へと足を運んでいた。今日も本当であれば、すぐに桜花に会いに行くつもりだったが、ふと宗谷は千早の表情が暗く沈んでいるのを見て、休憩をすることにした。


「どうしたの?」

 宗谷は訊く。


「もう、若葉ちゃんに会うのが辛いです。あの子は、以前の若葉ちゃんのようで、違う。若葉ちゃんは、あんな風に、何も言わずただ窓の外を眺め続けているような子じゃなかった──もう、あの約束を果たすこともできないんですね」


 ちょうどその時、待合室のテレビに見覚えのある施設の映像が映された。


 子供たちが監禁されていた忌まわしきあの施設。


 所有者不明の建物から、数年前から行方不明になっていた沢山の子供たちが発見されたというニュースだった。そして同時に、夥しい数の屍体もまた発見されたと。


 施設の責任者だった堂島という男を始めとして何人もの施設の人間が逮捕された。

 何故かそれまでマスコミでは扱うのがタブー視されてた新興宗教、人革宗はそれまでの腫れ物のような扱いが嘘のように、その異常性が強調された報道がなされ、一気にテロ組織としての烙印を押される形となった。


 御影宗谷は知っていた。塚本瑞穂は“断ち切った”のだ。

 それまで教団をタブーたらしめていた政治家やらマスコミやらといった諸々の黒い“繋がり”を。


「“断ち切る”能力ですからね。その対象は単なる物理的なものだけではなく、因果や関係性にまで拡大解釈することだってできます。

 もっとも、因果を断ち切るのは、身体に死にそうなくらいの負担がかかるんですが――まあ、あの場ではやるしかないと思いました」


 あの時、塚本瑞穂は疲労困憊の青白い顔で言っていた。


 実際、その因果とやらを断ち切ってから三日間、塚本瑞穂は寝込んでしまっていた。


 だいぶ回復はしたようだったが、今でもこころなしかその顔は青白い。


   ●●



 ちょうどその時、桜花は病室でそのテレビ報道を見ていた。


 忌まわしき施設の映像、次々と流れていく被害者の写真。


 そして彼女は思いだした。


「そうだ――約束――」


   ●●


「あの──304号室の今里桜花さんのお知り合いの方ですか」


 看護師は宗谷へと語りかける。


「はい、そうですが」


「今里桜花さんが、病室から姿を消したんです」


   ●●


 桜花が病室から消えたと伝えられ、宗谷たちは街中を走り回り、桜花を探した。


 桜花は家にもいなかった。見つからず、日も暮れかけたころに、宗谷の携帯に桜花から電話がかかってきた。桜花は家に戻っているようだった。


「お兄ちゃん──助けて。私、何もわからないのに、なんで、こんなに苦しくて、こんなに何かが憎くて──なんで、こんなこと、したんだろう」


 宗谷は、桜花の家に戻る。しかし、既にそこに桜花の姿はなかった。


 家の中は、ハンマーでも振り回したかのように、家電や家具が叩き壊され、その破片が部屋中に散乱していた。


「これは──誰が?」


 唖然と呟く宗谷に、連絡を受けて駆けつけてきた塚本瑞穂が声を掛けた。


「あの人です。今里桜花さんですよ」


「どうして彼女が」


「あの人は、確かに今里桜花になってからの意識も記憶を失った。

 でも、あの人の憎しみは失われていないんでしょう。人の心がグラスに注がれた水だとすると、水が心の土台となる記憶で、感情と呼ばれるものは、その水が注がれることによって生ずる揺らめきのようなものだと思います。

 

 憎しみの記憶──揺らめきの原因となった、その水をいくら掬い取っても、グラスに注がれた水の揺らめきを止められないのと同じで、今の彼女は、記憶には無い、原因なき憎しみと怒りに突き動かされている。


 それが、これです」


 家具や家電の破片が散乱する部屋を一瞥し、瑞穂は続ける。


「理由のない憎しみと怒りは行き場を失って、この部屋の中で爆発した。

 恐らく、彼女はそれを何となくわかっていた。だから、病院から逃げ出したんでしょう」


「君――どうして、そんなに詳しいの」


「え――?」


「もしかして君は以前に、自分自身の悲しみや憎しみを、自分の能力で“断ち切ろう”としたんじゃないのかな。

 たぶん、君のことだから、何度も研究して、試してみたのかもしれない。だから解るんだ、意識や感情が切り離されても“感情だけは残る”って」


 瑞穂は暫く沈黙し、静かに応えた。


「なるほど――まあ確かに――兄のように慕っていた人を失って、その哀しみを、殺したものへの憎しみを――ずっとずっと抱き続けるのは辛いことですよ。


 そういうのを自分の中から切り離したいって思っても、不思議じゃないと思うんですよね。そして偶然“断ち切る”能力なんて持っていた日には、試してみようとするのは必然なのかなと――。


 あの時、本当に私はバカで、感情に任せて――“私を私たらしめていた”色々なものを断ち切って――楽しかった記憶とか、友達とか、人間としての限界とかあるべき形とか――本当に数え切れないくらいの因果を断ち切って――。


 結局、本当に切り離したかった哀しみも憎しみも、“そのまま”だなんて本当にバカみたいな――」


 瑞穂は小さくため息をつき、宗谷に向き直った。


「感情っていうのは――想いっていうのは――その人そのものなんだなって。


 だって、揺らめいているグラスの水から、その揺らめきだけを切り取る事なんて、できないですからね。


 そこに気付くまでに、だいぶ色々なものを自分から断ち切ってしまいましたが」

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