虚空に消える
刃を携え身構えながら、瑞穂は渋い表情で呟いた。
「私のことを敵だと認識して排除しようとしていますね――肉体を得て、防衛本能までも得ているみたいですね。私でも見えるようになったのはいいですが、これでは埒が明きません」
第二波が、また別の触手が間髪入れずに瑞穂を襲う。瑞穂は再び跳び上がり触手を避けるが、その動きを予期していたかのように、更に別の数本の触手が少女を追随する。
瑞穂の肩と脇腹を触手の牙が掠めた。衣服が僅かに裂け、その隙間から白い肌が除く。そして少しの間をおいて滲み、迸る鮮血。少女は苦痛からほんの少し口許を歪めた。
「瑞穂ちゃん――!」
肩と脇から鮮血を滴らせる少女を見かねて、宗谷は思わず声を出した。
「駄目です、宗谷さん! 私のことはいいので、しっかりと“繋がり”を視線の先に――」
瑞穂が言い終わる前に、黒い触手の一部が宗谷の言葉に反応したのかその矛先を変えた。
「なっ――」
宗谷は唖然とした声を出した。矛先を変えた触手が、宗谷の頭部を狙って、物凄い勢いで迫っていた。
「くっ――宗谷さん」
瑞穂は叫び、刃を振るう。青白い一閃。宗谷の鼻先まで迫っていた触手の先端は、瑞穂の咄嗟の斬撃によって断ち切られた。
しかし、咄嗟の斬撃によって体勢を崩した瑞穂の隙を、触手は見逃さなかった。
一際太い触手が、瑞穂の胴体を捉えていた。少女は寸前のところで身を反らし、貫通を免れるも、その衝撃には抗えず腹を殴打されて吹き飛ばされ、壁へと叩きつけられた。
経年劣化で脆くなっているのか、少女の叩きつけられた壁はその衝撃で粉々に砕け崩れ落ちた。
もうもうと埃が舞う。全身を強打した瑞穂は、すぐに上体を起こそうとするも口から血を吐き、あまりの激痛に口の端を歪めたまま、涙の滲んだ瞳で白い肉塊と、その周囲を取り囲むようにして漂う無数の触手を睨みつけていた。
白い肉塊が鈍い音を立てて動き、倒れて動けなくなっている瑞穂の方へと向き直る。黒い触手を周囲に従え、蛇が首を擡げるかのように、確実に瑞穂を仕留めようと狙いを定める。
数え切れないほどの触手が一斉に少女を喰い潰さんと解き放たれた。瑞穂は眼前まで迫った無数の牙に、思わず目を閉じ身を縮めた。
その時だった。
触手が、動きを止めた。
止まったのは触手だけではなかった。その背後に佇む白い肉塊もまた、先程まで狙っていた少女など眼中にないかのように、ぶるぶると震え出していた。
「ミンナ……チー……チャン……」
肉塊が絞り出すような声を出す。
「宗谷さん!」
瑞穂は上体を起こして叫ぶ。
「今です! 『視て』ください!」
少女の叫びに突き動かされるように、宗谷は視線を動かした。
震え続ける白く膨らみきった肉塊と、その足元に広がっている黒い沼を“繋ぐ”、細くて小さく、しかい闇よりも深い黒を今里桜花へと流し供給し続けるチューブを。
瑞穂は立ち上がる。触手に裂かれた肩と脇腹からは鮮血が滲み、叩きつけられた際に砕けた壁の破片が全身に喰い込んでいた。少女は痛みを堪え、宗谷の視線の先を一瞥する。そして一気に駆けて白い肉塊に詰め寄り、跳び上がった。
そして、一閃。少女は手にした小さな刃を振るい、薙いだ。
青白い光が迸り、それは宗谷の視線の先に捉えられていた“繋がり”へ、しっかりと喰い込んでいた。
“黒の繋がり”は、眩い光で塗りつぶされるかのように『断ち切られた』。
黒の混沌が溢れた。
断ち切られた“繋がり”から、“歪み”が数年に渡って喰らい混ぜ闇色に染めきった混沌が、行き場を失って止めどなく溢れ、溢れ、溢れ――虚空へと散っていく。消えていく。
何故なら“歪み”と“歪みを作り出す能力者”との繋がりは“断ち切られた”から。
もはや“歪み”はその存在を維持することはできなかった。
白く膨らませた今里桜花という肉体から切り離され、黒い触手と獣という形を失い、喰らう本能を失い、喰らい綯い交ぜになった残留思念だった泥を吐き出し――そして、跡形もなく消えた。
その場に残ったのは、萎み小さくなって倒れる今里桜花の裸体と“無”のみ。
「大樹くん――さよなら」
満身創痍で突っ立ったまま、瑞穂は呟いた。
その瞳は白い肉塊が吐き出して虚空へと消えていく無数の残留思念の方へと向けられていた。
「今里さん!」
宗谷は床に倒れている今里桜花へと駆け寄った。屈み込み抱き起こす。彼女の裸体は、醜く膨らんでいたとは思えないほどに元に戻り、静かな寝息を立てていた。心なしかその表情は、宗谷の知る桜花よりも少しばかり幼く見えた。
「それにしても、どうして急に動きを止めたのでしょうか――おかげで助かりましたが」
桜花の寝顔を覗き見ながら、瑞穂は言う。ホッとしたような、しかし桜花を許しているわけではないような、複雑そうな表情をしながら。
「それは、たぶん――」
声がした。羽衣千早の声。いつの間にか残留思念の少女は部屋の端に立ち、触手によって破壊された壁の向こう側を見据えていた。
宗谷は声につられて千早の方へと視線を動かした。瑞穂もあわせて顔を動かす。そして二人は見た。破壊された壁の奥に、長い年月が経っているであろう無数の人骨が堆く積まれ、転がっているのを。
「たぶん、これ私ですよ」
千早は枯れたような声を出す。その目線の先にあるのは、ヒビ割れた後頭部にボロボロの白い布切れを絡みつかせた白骨化した屍体。
「若葉ちゃんはこれを見たんですよ。ここに転がる、あたしたちの屍体を。だから動きを止めた。これはたぶん、江坂くんの屍体――これは、やよいちゃんの屍体――。
だからあの子は、あたしたちのことを壊したくなかったんじゃないですかね」
●●
「お兄ちゃん――誰?」
今里桜花が目を覚まして発した第一声はそれだった。
「今里さん、な――何を言っているの?」
宗谷は目を剥いた。目覚めた彼女の口調は、彼の知る活発でお節介な今里桜花のものではなかった。とても幼く、無邪気で、まるで何も知らない子供のような。
「お兄ちゃん――江坂くんに似ているね――」
「今里さん、僕だよ。御影宗谷だ。君と同じクラスで――僕のことが、わからない?」
桜花は困ったように眉を寄せた。
「お兄ちゃん――何を、言って、いるの?」
「谷町若葉さん」
不意に瑞穂は問いかける。
ビクリと桜花は身体を震わせて瑞穂を見た。
「あなたも――誰――? どうして、あたしの名前を知っているの」
瑞穂はため息をつくだけで応えなかった。横目で宗谷を見やり、静かに言う。
「彼女は、今里桜花さんではありません。
さっきも言いましたが、“歪みを操る”能力に覚醒し、九条響さんが歪みに溜めた闇を取り込んだ時、その闇は逆流し、彼女の心を塗り潰した。
それ以降の彼女――今里桜花さんは“歪み”側の存在です。
そして私は、彼女と“歪み”を断ち切りました。断ち切られた“歪み”は能力者との関係性を失い消えました」
「つまり、今里さんは“歪み”と一緒に消えた――?」
「はい。残ったのは能力に覚醒する前の彼女――施設から脱出した少女、谷町若葉さん“だけ”です」
「断ち切る――“断ち切る”――か。
そうか――つまり君は“断ち切る”力を持った“能力者”――なんだね?」
宗谷の問いに、瑞穂は黙ったまま頷いた。
「そうか――今里さんは既に“歪みに心を喰われた”って言っていたよね。そして君は、彼女と歪みの繋がりを断ち切った。後に残ったのは、心を喰われる前の彼女だけ――」
「お兄ちゃんたち──何を言っているの?」
桜花は虚ろな瞳を泳がせながら、困惑したかのように呟いた。
瑞穂は目を伏せる。
「私がもっと早く、彼女と“歪み”とを切り離せていれば、あるいは──」
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