変貌
その“施設”は、木々の深い山奥に隠されるようにして建っていた。
安物のような水色の塗料で厚ぼったくペイントされた壁や屋根は所々が剥がれ落ち、露出した下地は錆か腐敗かで茶色く変色していた。まるで打ち捨てられ、朽ち果てつつある動物の遺骸のような。
かつて監禁されていた場所を前に、羽衣千早は露骨に顔を強張らせて後ずさった。
「大丈夫?」
半透明な少女の肩を抱き、宗谷は訊く。小さく身体を震わせながらも、彼女はゆっくりと頷いて見せた。
「それにしても――人の住む場所ではないですよ、これは」
右手に小さな刃物を握り締めながら、目を細めつつ瑞穂は言う。その視線の先にある壁は朽朽ち果てて触れただけで崩れ落ちてしまいそうなほどにボロボロで、その隙間から漂ってくる饐えたような臭いに、少女は思わず鼻と口を手で覆った。
その時、宗谷は“視た”。建物のあちこちから覗く隙間から、臭気と共に霧のような黒い粒子が漏れていることに。
「瑞穂ちゃん、中に――いる」
「わかりました」
瑞穂は短く答えると、入口と思しきドアのノブへ慎重に手をかける。
「宗谷さんはしっかりと“視て”いてください。私はそこを――断ち切ります」
ドアの先には暗く細い廊下が続いていた。建物の中は、より深く濃い黒の霧に覆われているように宗谷には“視える”。瑞穂には黒い霧は見えていないようで、強い臭気に嘔吐きながら足早に前へ進んでいく。
宗谷は朧気な視界の中で、どんどんと奥へと向かっていく少女の背中を追った。
その時だった。廊下に充満していた黒い霧の流れが変わった。ただ漂っていただけのそれは、何かに吸い寄せられているかのように、明確な意思があるかのように流れ始める。
瑞穂は立ち止まる。眼前にあるのは酷く錆びついた鉄の扉。扉と壁の間にある僅かな隙間、黒い霧がそこへ流れるように吸い込まれていくのが“視えた”。
「たぶん、この中にいる」
宗谷は短く言った。それとなく察しているかのように瑞穂も小さく頷き返すと、身構えながら鉄の扉を開く。
薄暗く広い部屋が広がっていた。そして“見た”。部屋の中央に鎮座する悍ましい肉の塊を。
隣に立つ瑞穂が、うっ、と声を漏らし、咄嗟に口元を押さえる。それはもはや宗谷にしか“視る”ことのできない存在では無くなっていた。
半透明ではなく、物理的に、確かにそれは実体のあるものとして、宗谷はもちろん瑞穂にもしっかりと“見えて”いた。
「これが――力を使い過ぎた能力者の成れの果て、ですか」
口を押さえながら肩を震わせ瑞穂は呟く。
「まさか」
宗谷は目の前に実在するそれを見ながら。
「これって――」
「これは恐らく――今里桜花さん――。ありとあらゆる残留思念を、憎悪を、その対象となる人間たちを、際限なく喰らいに喰らった黒い獣の行き着いた先は際限のない膨張。それは能力者である彼女に逆流し、ついにその肉体を喰い破った。
人間の身体という形あるものから溢れ出た“歪み”は、もはや形なきものではなかった。
彼女の肉体を経由して溢れ出ることによって、ついに“形”を得てしまった。そして形を得た歪みは、その抜け殻を纏って形を確固たるものにしようとしている。さらに何かを喰らうために――」
それは黒い泥にまみれた肉の塊。
はちきれそうな風船のように膨張しきった白い裸体のようなもの。
よく見るとそれは僅かに人の形の面影を残しており、四肢の残滓と思しき小さな突起が四つバラバラに生えていた。
かつて目や口や鼻、肛門だったであろう全身の穴という穴から黒々とした血とも泥とつかぬものを垂れ流し、その黒い泥は床に汚物のように広がっている。
沼から無数の手が伸びているかのように、黒い床から獣のそれに似た触手がわらわらと生えて犇めき合い、その先端は部屋に充満した黒い霧を吸っては吐いてを繰り返している。
それは今里桜花という人間だった少女の末路。
その背後には、彼女をこんな姿にしてしまった元凶である施設の人間たちのものと思しき肉片と血飛沫が、まるで食い散らかされた跡のように無造作に飛散していた。
「これが、今里さん――? そんな――ことが――」
宗谷は呆然と立ち尽くし、異形そのものと化した少女の姿を見つめることしかできなかった。
彼の視線の先で、白い肉塊は痙攣するかのように小刻みに震え、止めどない泥を吐き出しながら、くぐもった声を響かせた。
「ミカゲクン……ミナイデ……コンナノミナイ……デ……」
それは今里桜花だったモノの呻きとも泣き声ともつかぬ声。宗谷は息が詰まるのを感じると同時に、思わず後ずさった。
「宗谷さん、さっき言ったことを忘れましたか?」
静かに、しかし芯の通った強い声で瑞穂は語りかけた。
眼前の異形を見据え、小刀を取り出して握り締め、青い髪の少女は横目で宗谷を流し見る。
「諦めないでください。聞こえたはずです、今里桜花さんの声が。
まだ自我はある。だから、まだ完全に手遅れではないはずなんです。
宗谷さんは、“歪み”と彼女との繋がりを見つけて、そこを“視て”いてください。
そこさえ“断ち切れ”れば、まだ間に合うかもしれない」
そうだった。自分にはまだ出来ることが、やるべきことがある。
先程、瑞穂から言われた言葉を思い出し、宗谷は視線を上げ、眼を凝らして異形と化した少女の姿を見据えた。
そして探す。黒い“歪み”と今里桜花を繋いでいる箇所を。
「もしかして――これ――が――?」
可憐な少女を原型を留めないほどに凄惨な姿へと変貌させてしまうほどの溢れる黒い闇。
それとの“繋がり”と言うには、“視えた”それはあまりにも細く小さかった。
かつて彼女の背中だったであろう白く膨らんだ箇所から伸びる数本の細い管。
足元に広がる黒々とした沼から伸びるごくごく小さな数本の管。
しかし、それは一切の色を排除した深い深い闇を内部に満たし、蚯蚓のように蠢きその伸縮によって、沼の闇を否応無しに彼女へと流し続けていた。
「小さくて細い管が“視える”。彼女の背中と黒い闇とを繋いで——」
宗谷がそう言うか早いか、瑞穂は刃を携えて駆け出した。
「では、その箇所をずっと“視て”いてください。
その“繋がり”は、私には見ることができないので、私が直接に断ち切ることはできません。
ですが、宗谷さんの視線なら私にも見えるのでわかります。
そして、宗谷さんが視線の先に“繋がり”を“視て”さえすれば、“宗谷さんが視線の先に捉えているもの”として“断ち切る”ことができますので」
早口で言い終える間も無く、瑞穂は刃を振るう。
少女の手にした刃から、青白い光が放たれ、その一閃は正確に宗谷の視線の先にある、“化け物と今里桜花との繋がり”へと伸びていく。
その途端、床に広がる黒々とした沼から無数の触手が一斉に伸びる。
それらは不規則な軌道を描きながら、自身の生命線とも呼べる“繋がり”へと庇うように覆いかぶさった。少女の放った斬撃は、触手へと食い込み真っ二つに断ち切ると、周囲に黒い血飛沫の雨を降らせる。
しかし、それによって少女の渾身の一閃は、目標を断ち切る寸前のところで阻まれてしまった。
瑞穂はチッと舌打ちし、独りごちる。
「流石に、そう簡単に弱点は狙わせてくれませんね」
次の瞬間、別の触手が一斉に伸びた。
先端が裂け、無数の牙を剥き出しにしたそれは、一直線に瑞穂へめがけ、少女の身体に喰らいつかんと、そのか細い胴体を貫かんと襲いかかる。
瑞穂はすぐさま跳び上がり、触手の先端を避けた。
殺到する無数の触手は彼女が立っていた場所を貫き、床のコンクリートを粉々に粉砕する。
もし少女が避けていなければ、彼女の身体は無残に引きちぎられていただろう。白い肉塊の背後に転がっている無数の屍体の破片と同じように。
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