“逆流”


「逃げられましたか。まあ、行き先は予想がつきますが」


 壁に開けられた穴から獣の跳び去ったと思しき先を見据えながら、瑞穂は静かに呟いた。穴から吹き込む風によって、左右で束ねられた青い髪がはらはらと揺れている。


「話は聞かせていただきました。いずれ“能力者”になるかもしれない子供たちを集めていたという宗教のような施設。

 

 そして彼らの教義――ええと、ヒトは命尽きねば目覚めず、なんとかかんとか――収穫の日がうんぬんかんぬん――ですか。


 私の預かった偽典における“能力者”の解釈とだいぶ違いますが、伝承の違いか、はたまた別の宗教ゆえか――」


「瑞穂ちゃん」


 宗谷に呼びかけられ、少女は振り返った。感情を拭い去ったような幼い顔はあまりにも白く、そして、なぜだか酷く疲れているように見えた。


「君は、獣の触手に喰い殺されたんじゃ――それに怪我もしていたはず――」


「詳しいことは、私の能力の本質に関係することなので、私の口からお話しすることはできませんが――あの時、化け物に喰われる直前、私は自身の存在を、この次元から切り離した、とでも言えば理解していただけますか?

 おかげで戻ってくるのに“だいぶ”時間がかかりましたが」


 さっぱり解らない、という意味を込めて宗谷は眉を潜める。


 瑞穂は、それもそうかと頷くと肩を竦めてみせた。少女の小さな肩は、疲労からか息の乱れからか微かに揺れ続けている。


「さっきも言いましたが、つまりは逃げ出したということですよ。あなたと――羽衣千早さんを見捨てて、自分だけ逃げ出したんです」


 瑞穂は視線を落とす。つられて宗谷は腕の中に抱きしめたままの千早へと視線を移した。


 羽衣千早は宗谷の腕の中で力なく蹲っていた。そして譫言のように、まるで呪われてでもいるかのように、一心不乱に呟き続きけていた。


「ごめんなさい――若葉ちゃん――ごめん――なさい――」


 宗谷から視える千早の、その瞳からは涙が止め処なく溢れていた。親友が、誰かを殺して、誰かを喰らって、その誰かを化け物の一部にして、また別の誰かを殺して、また喰らわせようとしている。


 際限なく罪を重ねようとしている。千早はそれを目の当たりにし、哀しみに打ちひしがれ、その責任の一端が自身にあることに震えていた。


 視えていなくてもその様子を察しているのか、千早の蹲っている辺りに視線を向けている瑞穂の瞳には哀れみの色が浮かんでいた。


「千早さんは、大丈夫そうですか?」


 瑞穂の問いに宗谷は短く首を横へと振った。


「そうですか」

 少女は目を伏せ。

「では、落ち着いてから向かいましょう」


「今里さんが復讐に向かった場所に。つまり、この子達が囚われていた場所に、だね」


 宗谷の応えに瑞穂は小さく頷く。そして芯の通った、しかし淋しげな声で呟いた。


「早く、解き放ってあげないと。やっとわかりました。本当に断ち切るべきものが何か」


「本当に断ち切るべきもの?」


 瑞穂はゆっくり顔を上げた。宗谷の眼を見つめて、少女は問いかける。


「あの人の、あの様子——“視えない”私にだってわかりますよ。だから宗谷さんには、もっとはっきりと“視えて”いたんじゃないですか?」


 宗谷は思い起こす。今里桜花の感情に連動するように靡く触手を。


 怒りと憎しみとが綯い交ぜになったかのように深く濁った眼が、獰猛な獣のそれとシンクロするのを。


 頬を伝い涙のように流れ出た液体が、赤黒い血のように、黒い化け物の体液が逆流して溢れ噴き出しているかのように視えたことを。


 躊躇いがちに頷く宗谷に、瑞穂は続けた。


「あの人はもう——心を喰われています」


   ●●


「あの獣を――いえ、今里桜花さんを止めるには、私だけではどうしようもない二つの問題を解決する必要があります。その為には、お二人の協力が不可欠です。


 最初の問題は、今里桜花さんが向かった先が何処なのか。


 彼女は復讐と称して、かつて自身や友達が囚われていた施設に向かったのだと思われます。その場所を知っているのは羽衣千早さん、あなただけです。


 そして次の問題は、あの獣――“儚い沼の虚空”という名をした化け物の存在。


 あの化け物の本質は、能力者によって操られ形を成した“歪み”。


 歪みを操る能力を持った人間によって、形という外枠だけを与えられたそれは、歪みというただの現象であるが故に中身というものを持たず、中身という概念の無いまま形を得たが故に中身を欲した。


 能力者、九条響さんの生み出した最初の“儚い沼の虚空”。


 もともと喰らうという概念すら持ち合わせていなかっただろうそれは、しかし中身がないが為に、施設で殺された哀しい子供たちの“中身”を少しずつ引き寄せて吸い取っては、その底なしの渦の中で凝縮させ、やがて黒々とした獣の姿となった。


 それを喰らったのが今里桜花さんの生み出した二体目の“儚い沼の虚空”。


 彼女は自身の作り出した歪みが、そのまま九条響さんの歪みを取り込んだようなことを言っていました。


 でも、本当にそうでしょうか。宗谷さんは先程の今里桜花さんの様子を見て、どう思いましたか?


 何も視ることのできない私ですら、こう思いましたよ。


“いろいろなものが溢れすぎて、逆流している”って。


 おそらく彼女は、心を喰われています。逆流した獣の混沌とした中身に呑まれて。


 今里桜花さんは歪みを操る能力者ではあるのでしょうが、あの獣を操っているのは、もはや彼女ではない。むしろ、獣のほうが自身を存在させ続けるために彼女を操っている。


 大勢の子供たちの中身を喰らいすぎてあまりにも膨大になった獣の中身は、それを取り込んだはずの彼女だけでは到底受け止めきれる量ではなかったから。


 そして、喰らいきれず溢れて逆流した獣の中身は、今里桜花さんの心を塗り潰した。


 宗谷さん。今、あの化け物と今里桜花さんはどこかで“繋がって”いませんでしたか? 歪みが歪みの元を操るための逆流の繋がり。それを“視る”ことができるのは御影宗谷さん、あなただけです。


 あの化け物と能力者のいる場所がわかれば、あの化け物が自身の根源とどのようにして繋がっているのかがわかれば――あとは私が、それを“断ち切る”だけです」

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