赤黒い憎しみの泥は溢れ
「やめるんだ! その子は君の――」
宗谷は思わず手を伸ばし、声を張り上げる。
一閃。その時、彼と彼女の間を、白とも青ともつかぬ眩い閃光が走った。
閃光の白に塗り潰されるように、拭い取られるように、千早を絡め取っていた触手が、その根本の辺りが消し飛んだ。少女の白い肌に折り重なるようにして喰い込んでいた黒い異物は、その根本を断ち切られたことにより萎び、粒子となって散り散りとなっていく。拘束から解放された千早は背中から床へと落下する。
桜花は横目で、宗谷は向き直り、二人は同時に閃光の放たれた先を見た。触手の残滓である黒い粒子が霧のように立ち籠め、その奥にうっすらと見えるのは小さな人影。
立っていたのは青い髪の小さな少女。息を切らし肩を揺らしながら、右手に小刀を握り締め、白く幼い顔立ちに不釣り合いな感情の見えない表情で、塚本瑞穂はじっと正面を――視えてはいないが確実にそこにいるであろう獣の影を、見据えていた。
「——さんは、無事ですか?」
短く小さな声で、瑞穂は宗谷へと問いかける。
横目で瑞穂を見ていた桜花の眉が僅かに動いた。突然の乱入者を訝しんでいるのか、その者が出した名が聞き覚えのある名前だったからか。
宗谷は床に倒れていた千早を抱き起こす。彼女は震えたまま無言で宗谷の胸へと飛びついた。
「良かった、大丈夫みたいだ。でも、君はどうやってあの状況から——」
少女は小さく溜息をつくと肩を竦め、ひらひらとその手に握った小刀を振ってみせた。
「逃げるのは得意なんですよ。こんな“おぞましくて気持ちの悪い化け物”を相手にする以上、逃げる手段は豊富に用意しておきませんと」
そう言い放つと、瑞穂は睨むような目線を桜花へと向けた。桜花もまた、横目で瑞穂を見据えたまま微動だにせず問いかける。
「あなた――誰?」
瑞穂は応えず、睨みながら値踏みするかのように少し顎を引く。桜花は続けた。
「痛い――このピリピリした嫌な感じ――あなたが、時々あたしの邪魔をしていた“切り裂き魔”ってことかなのかな? まさかそれが、こんな小学生だったとはね」
桜花の口の端が徐々に引き攣っていく。
「あのさ、ここは病院で、あたしは御影くんと大事なお話をしているところなの。小学生がウロチョロしていい場所じゃないの。さっさとお家に帰らないとね。それに――」
ゴミを見るかのような見下しきった視線がぶつかる。
「“おぞましくて気持ち悪い化け物”だなんて、随分な言い方じゃない。お子様だから言葉遣いもなってないのかな?」
「本当のことを言ったまで、ですよ」
刺すような鋭さで桜花を睨み返しながら、瑞穂は独り言のように言う。まるで相手がその場に居ないかのように、未だ漂う黒々とした霧の中に言葉を溶かすように静かに。
「からっぽな自身を満たすためだけにありとあらゆるものを喰らおうとするモノを、化け物と呼ばずして何と呼ぶのですか。
そのためだけに、たった一人残った大事な友達すら喰らおうとするモノをおぞましいと形容してなにがいけないのですか?」
空気が凍りついた。今里桜花の表情が強張る。その顔色が蒼白になっていくのに呼応するかのように、部屋全体に沈殿した黒い霧が急激に温度を失い冷たくなり、部屋の白い床に霜を降す。
「今——なんて、言った? 友達を——喰らう——?」
狼狽えたような声を出す桜花。瑞穂は彼女を睨み続けながら、不意にほんの数秒だけ視線を外し宗谷へと目配せした。『ここから先はあなたが言うべきだ』とでも言いたげな素振り。
「今里さん――」
躊躇いがちに、宗谷は桜花へと話しかける。彼女は濁り揺れる眼を宗谷へと向けた。
「御影くん――そこに、いるのは」
「羽衣千早ちゃんだよ。“約束”をした、君の友達。君には視えていなかったとはいえ、君は危うく大事な友達を喰らおうとするところだった」
「嘘よ――そんな風に騙して、あたしを止めようとしたって――」
澱んだ瞳を揺らしながら、桜花は後ずさる。
「嘘じゃない。千早ちゃんは言っていた――僕は、君たちの友達だった“江坂くん”に似ているんだって。だから君はこんなに回りくどいことをして、僕に危害を加えようとも、脅そうともしなかった——違う?」
触手が小刻みに震え、桜花の動揺を写し出す黒い鏡のように波打っていく。
「それは——そう、その通り。過ちは、繰り返したく無かったから——」
その途端、彼女の背後で揺らめいていた黒い触手が、たがが外れたかのように激しく動き出す。あまりにも無秩序に、荒れ狂ったかのように、絡み合う闇の薔薇は膨れ上がっていく。
「そこに——いるんだね? ちーちゃん——千早ちゃんが」
宗谷が頷く。と同時に、彼女は目を見開いた。
彼は見た。今里桜花がその瞳をぐいと見開くのと同じタイミングで、彼女の背後に蹲る獣もまた、その獰猛な眼をこれ以上ないほどに見開いたのを。
そして響き渡る轟音。獣の咆哮。今までに何度も聞いた、雷鳴のような音。しかし彼はその爆音の中で、全く別の音を聞いていた。
嗤い声だった。低く重い雷鳴の中で、決して掻き消されることのない甲高くしかし太い芯の通った、女のけたたましい声。それはまるで、ココロが壊れて歯止めが効かなくなってしまったかのような、止め処ない感情の発露のような。
今里桜花は嗤っていた。止め方のわからない目覚まし時計のように、震えるように肩を揺らして、これ以上無いほどに口を開き、二の腕で顔を覆い隠しながら、そこからその隙間から血とも涙ともつかない色をした液体を溢れ流しながら。
「あははっ――あはははっ、あたしバカみたい――ちーちゃんはとっく死んでるのに、あたしだけバカみたいに約束を守ろうとしてたなんて。ちーちゃんと再会した時に、守ってあげられるように“これ”をきちんと操れるようにならなきゃなんて思ってたりなんかして――その挙げ句がこれ? あたしはちーちゃんを喰おうとしていたって? あはははっ、バカみたい――バカみたいじゃない、これじゃ――こんなんじゃ――」
「今里さん――」
吼え続ける桜花に、宗谷は声を掛ける。その声に応え、彼女は顔を覆っていた二の腕を下ろし液体に濡れた顔を宗谷へと向けた。頬を伝っていた雫が撥ね、床へ散る。
「誰が殺した――?」
彼女は訊く。その声に気圧されながら、宗谷は彼女の顔を見た。涙だと思われた頬の筋は別の色を帯びていた。
「君たちがいた施設の人間に――」
「やっぱりね――だから別々逃げるだなんて反対したのに――」
そう言う桜花の顔を、上半身を、全身を順に見つめて、宗谷は言葉を失った。
いつしか彼女の顔は、赤黒い血を塗りたくったかのように汚れていた。涙だと思っていた液体は澱んだ血のような色をして、瞳から血涙のように、口許から涎のように溢れ出ていた。頬を伝い、か細い首筋を流れ、着衣に染み込み、その色は彼女の全身を侵食していく。
まるで、獣の中で渦巻いている赤黒く澱んだ体液が、今里桜花の中にまで流れ込んでいくかのようだった。滴る液体から陽炎のように立ち上るのは、獣を思わせる黒々とした粒子。
「もう“これ”が満腹になるのなんて待っていられない――あたしは今すぐ、あいつらを殺す――喰いちぎって――細切れにして――跡形も残さず喰らい尽くしてやる――!」
再び、獣の咆哮——いや、獣の吼えたける音のように聞こえたそれは彼女の、今里桜花の怒号だった。大声で泣き叫ぶ甲高い女の声は、次第に掠れ潰れていきヒトの言葉では無くなっていた。もはや、黒い巨獣の放つ雷鳴のような轟音と聞き分けることすらできないほどに。
桜花の叫び声が頂点に達したその時、彼女の背中から夥しい数の触手と赤黒く血腥い液体が溢れ出た。宗谷には“視えた”。女の小さな背中が裂けて、その中からどす黒い巨獣が這いずるようにして産まれてしまったかのように。
産まれ生えた触手は、彼女の背後に覆いかぶさっていた獣と絡み合い、混じり合い、より大きく混沌とした獣と成り果てた。
獣は低い唸り声を上げながら身震いした。それに呼応するように触手で“繋がった”桜花の身体がビクンビクンと痙攣する。全身を血の色に染めきった彼女は俯いており、もはやその表情を窺い知ることはできなかった。
獣はゆっくりと身を起こし、壁と窓の方を見やった。次の瞬間、窓が一斉に粉々に砕け散った。続いて、壁が爆発したかのように崩れ、土埃を撒き散らし轟音を響かせる。獣の巨躯が、身体に絡みついた無数の触手ごと壁へと突っ込んでいた。
「なっ――まさか」
瑞穂は我に返ったように呟くと、土埃が巻き起こり視界の遮られた壁へと走り寄る。だが既に遅く、黒い獣は“繋がった”今里桜花ごと壁に開けられた大穴から跳び去っていた。
●●
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます