歪みのカタチは


「え――?」


「あたしが声をかけて、彼が振り返ってあたしを見た、その直後、彼の身体は見えない何かと激突したかのように吹き飛ばされた。


 そして、背中を激しく壁に打ち付けて痛みに呻く彼へと視線を動かす間もなく、彼の顔は鎚か何かで押し潰されたかのように飛散した。


 右腕が引き千切れ、続いて左足が弾け飛んだ。立っていられなくなって、彼はその場に突っ伏した」


 少女の心から伸びる影のように、わらわらと触手が揺らめき続ける。


「あたしは響くんに駆け寄った。だけどもう、どうしようも無かった。どこからどう見ても、手遅れだったから。そして――彼を諦めて顔を上げたあたしは、それを“視た”。


 狼の化け物のような黒い巨体を。その全身に這いつくばっている気持ちの悪い触手を。その触手のうちの一本が、九条くんの千切れた腕と足とを、まとめて咥えて、今にも呑み込もうとしているのを。


 あたしは恐怖に固まった。固まったまま逃げることも叫びも上げることができないあたしに、響くんは最後の力を振り絞って教えてくれたの。


 “もしかして――君にも――これが視えるんだね。そうか――つまり、君も――覚醒したんだ。でも、気をつけなよ。力を使いすぎると僕みたいに、自分の力に喰われて――”って」


 その刹那、桜花の背後でわらわらと揺れていた触手の一つが、不意に彼女の首筋に纏わりついた。先端から無秩序に生える剃刀のような牙を首筋に這わせる。


「そう――こんな風に、ね」


 桜花は慣れた手付きで触手の喉元を掴み捻った。白い指先に触れられた部分を中心に黒い触手が溶ける。さらさらと風に靡く砂のように、触手の先端は黒い粒子となって空中へと消えていった。


「さっき言ったでしょう? あたしだって、“これ”を上手くコントロールできるわけじゃない、って。無理に操ろうとすれば、逆にあたしが喰われちゃう――九条響くんみたいにね。        


 彼はたぶん、力を使いすぎればその力に喰われることを本能的に知っていた。だからその力を自覚しながらも出し惜しみしていた。でも結局は、千早ちゃんのために――施設から脱出するのに力を使いすぎて、そして、響くんは“これ”に喰われた。


 あたしの目の前で、ぐちゃぐちゃになった響くんは、化け物のその大きな口に頭から呑み込まれて、ガリガリと音を立てながら骨と肉とを砕かれながら闇の中に混ざっていった。


 恐怖と意味のわからなさに、あたしは声も出せなかった。ただ力なく座り込んで、衣服の切れ端や肉塊やらといった響くんの残骸の浮かぶ血溜まりの中に蹲っているしかなかった。


 気づくと、化け物と目があっていた。獣の目。何かを食べることしか考えてなさそうな動物の目。あたしも彼と同じように食われると思った。そして実際、化け物はさっきと同じように触手を広げて、大口を開けて、あたしを飲み込もうとした。


 動けなくて、縮こまるように身構えて、掌を握りしめて――握りしめて――さらにさらに握りしめて――。


 化け物は襲ってこなかった。あたしは恐る恐る顔を上げて見た。


 そこにあったのは、宙に浮く小さな黒い影。あたしを喰らおうとしていた化け物の頭は、幾つもの触手は、その黒い影に引き寄せられているかのように動きを止めていた。


 そして、あたしは気づいた。あたしが拳を握りしめれば握りしめるほど、黒い影は渦を巻き、化け物を吸い込もうとする力を増していることに。


 死にたくなかった。せっかくあの酷い場所から逃げ出したのに、こんな化け物なんかに喰い殺されたくは無かった。


 だから、あたしはより強く拳を握り締めた。一瞬でも、一時でも、化け物を足止めする為に。掌に爪が食い込み、痛みが麻痺するほどに、血が滴り落ちるほどに、強く――強く――。


 まるで、小さな蛇が自分の何倍もの大きさの獲物を呑み込むかのようだった。“あたしの小さな黒い影”は、大口を開けるかのように包み込むかのように拡がっていき、“響くんの遺した黒い獣”を頭から吸い込んでいった。一片の欠片も、僅かな粒子すら残さず、すべてを飲み込み、吸い尽くし、深く暗い闇へ塗り潰してしまった。


 そして、それが――“これ”よ」


 桜花は少し顔を上げ瞳を細めると、作り笑いのような微笑みを浮かべた。それを合図にしたかのように、背後で蠢いていた無数の触手が一斉に彼女の全身に這うように纏わりつく。


 頬のあたりを掠めるように漂う触手の内の一本に、桜花はまるで飼い猫の喉を撫でるかのような手つきで触れ、その指先を触手の輪郭に沿って滑らせていく。


「何の因果か、あたしは響くんと同じく能力に目覚めた――“これ”の姿を認識できて、わずかばかり操ることのできる力に。そして、あたしの“これ”は、喰われて死んだ響くんの遺した“化け物”を呑み込んで、こんな姿に大きくなって成長した」


 〈あらゆるものを喰らい尽くす、“あらゆるものを喰らい尽くす獣”を喰らった獣〉の成れの果て。儚い沼の虚空。全身から伸びる触手で桜花を包み込み、その背後に鎮座する黒い獣を、宗谷はまじまじと見据えた。


 そして彼は、今まで気づかなかった事に気付いた。化け物はよくよく目を凝らして見ると、人間のカタチをしていた。


 いや、無数の人間のカタチが混ざり合い絡み合い犇めき合って、獣の姿を形成していた。全身から伸びる触手すらも、それは長い時を経て本来のカタチを失い無残にも長く細く引き伸ばされた、かつて人間のカタチだったもの。その深く暗く何色とも呼べない黒は、あまりにも色々なものが喰われ、混じり合い過ぎたことによる底の無い澱み。


 今にも飛びかからんとする肉食獣の眼で宗谷を捉えながら、化け物は低い唸り声を上げ、そして咆哮した。よく聴けば、それも大勢の人間のカタチをしたものの叫び声が幾重にも重なり合ったものだった。あまりにも沢山の人間だったものが次々に言葉にならぬ声を叫ぶ音、それらが混ざり合い、まるで獣の咆哮のように、雷鳴のように聴こえていたのだった。


「今里さん――これは何なの。僕は今までこれを獣だと――化け物だと思っていた。でも、間近で見るこれは、まるで沢山の人間が混ざりあったような――」


 桜花は気怠そうに小さく頷いた。


「よかった。御影くんにも“同じように視えて”るんだね。


 そうだよ。“これ”は、今となっては黒くて巨大な獣のように視えるかもしれないけれど、元々は“ただの歪み”」


 ただの歪み。宗谷は思い出す。そういえば塚本瑞穂も同じことを言っていた。


「あたしは、この“能力”に目覚めて、少しずつわかってきた。


 最初はただの歪み。でも、窪地に雨が溜まって水溜りとなり、それが大きくなって、色々と流れ込んで、やがて濁った湖になってしまうように、この歪みには死んだ人間の意識が溜まる。


 沢山の人々の意識が混ざり合ううちに、やがて理性は喪われていく。いえ、いろんな人間の心が混ざり合えば、それはもはや理性とは呼べなくなるから。赤と緑と黄色と青と紫と橙と桃色と茶色の塗料を混ぜあわせたら、それは元の色のいずれでも無くなってしまうように。


 だから真っ黒な本能だけが、歪みに溜まって澱んでいく」


「真っ黒な本能――」


「本能――何かを欲すること。それが元々何の欲求であったのかは、もう色々と混じり合ってしまった今となっては解らない。解らないから、すべてを欲しようとする。


 でもこれはただの歪み。その本質は空っぽで“何もない”。だからこそ、人間を欲する。空っぽだからこそ、中身のある人間を、その肉体を、自我を、意識を欲する。そして――」


 桜花は言いながら上方を仰ぎ見た。周囲で揺れる化け物の触手も、彼女の動きと同期しているかのようにその矛先を天井へと向ける。


「“死んだ人間の遺した意識のようなもの”を欲する。


 たぶん、死してなお残る意識は強いものだから。


 決して満ちることのない空っぽは、自身を満たすものだと信じて、死んだ人間の遺した意識のようなものを喰らおうとする。そしてまた混じりあい、その理性を溶かし、ただ本能だけが肥え太っていく」


 微動だにせず、視線を上げたまま桜花は息を吐いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る