底抜けの憎悪
「何を驚いてるの――?」
桜花は譫言のように呟く。虚ろな瞳を不規則に左右へ揺らしながら、その視線は宗谷を捉えていながら、しかし何も視えてはいないかのように澱みきっていた。
「あたしのことを疑っていたから、わざわざここに確かめに来たんでしょう?」
宗谷は絞り出すように声を出した。
「やはり、君だったんだね」
無意識の内に宗谷は唇を噛み締めていた。まるで苦虫を噛み潰したように頬のあたりが引き攣り歪むのを感じる。
「どうして、睦月を殺したんだ」
その一瞬、桜花は視線を逸し、唇を尖らせた。
「あたしだって、彼を殺すつもりは無かった」
「殺すつもりは無かった――って、でもあの化け物は睦月を――」
「あのさ。御影くんに、あたしと“これ”がどういう風に関連付けられて“視えて”いるか知らないけれど、あたしだって“これ”を上手くコントロールできるわけじゃないんだよ。池田くんが逃げ出したりしないように見張っておくだけのつもりだったに、まさか池田くんのことを殺して食べちゃうだなんて――」
「今里さん――」
宗谷の脱力したかような呟きを見ながら、桜花は澱んだ瞳を細める。
「だから――よっぽどお腹が空いてたんだと思うんだよね」
桜花の口許から白い歯が覗いた。途端、彼女の背後に佇む黒い獣が、犇めき合う触手が、わらわらとまるで笑ってでもいるかのようにざわめいた。
今里桜花は、池田の死など、友達の死など何とも思ってはいないようだった。その様子を眺めながら、宗谷は意識が眼前にいる獣の黒の中へと落ちていくかのような錯覚を覚えた。もはや、今ここにいる今里桜花は、御影宗谷の知っているクラスメートの今里桜花ではなかった。
「君は――誰だ」
まったく意識しないまま、宗谷は声を漏らす。
その問いの答えは、全く予期しない方向から唐突に聞こえた。宗谷の背後に佇んでいた羽衣千早は、震える声で譫言のように、しかしはっきりとその名を口にしていた。
「谷町――若葉――ちゃん」
谷町若葉。羽衣千早と共に酷い施設で暮らし、その酷い環境に耐えかねて共に脱出した友達であり、千早と再開の“約束”をした相手。羽衣千早が死して肉体を失ってもなお、その心だけが生き続ける理由。“約束”を果たすことができないままであるがゆえの、現世への未練そのものといえる存在。
宗谷は唇の端を噛み締めながら、改めて問いかけた。
「どうして、こんなことを君は」
「――かな」
消え入りそうな小さな声で桜花は言い放つ。
「え?」
「復讐――かな」
桜花は紫色に澱みきった瞳を見開く。同時に、その動きに呼応するかのように彼女の背後に覆いかぶさる漆黒の獣も獰猛な眼を見開いた。
宗谷はそれを“視て”、痛みすら感じるほどに深く強く思い知った。
今里桜花――いや、谷町若葉と、彼女の操る醜い黒の獣――“儚い沼の虚空”が、切り離しようのないほどに深く強く密接に繋がっていることに。
あるのはただ、底抜けの憎悪だけ。
●●
あたしはね、昔は――谷町若葉っていう名前で呼ばれていたの。
御影くんの知っている今里桜花っていう名前は、こうやって普通に暮らしていくための仮の名前。嘘の名前。
でもね、谷町若葉っていうのだって本当は本当の名前じゃないのかもしれない。
もしかしたら、そのさらに昔には本当の本当の名前があったのかもしれないけれど、今となっては思い出せないし、思い出すことに何の意味もないことだから。
一番古い記憶は、両親と――もう顔も名前も思い出せないけど――どこかの広い公園に遊びに出かけたときだったかな。ぐちゃぐちゃに掻き回される前の、普通の子供だったときの最後の記憶だよ。
そう、あの時の私はとても幼くて――夢中で遊んで、親とはぐれて――気づいたときには、変な格好をした背の高い男の人に、知らない大人に手を引かれていて――。
あたしはね、拐われたの。拐われて、普通ではない酷い場所につれてこられて、そこで育てられた。何ていうのかな――幼稚園とか小学校とか――そういうのとは明らかに違う、暗くて寒くて――あの時に感じたのは、まるで檻のような場所だなってことだけ。
今でもあの場所が何だったのかはわからない。でも、後に起こったことを考えると、もしかしたら、あの場所は“あたしたちみたいな子供”を集めていたのかもしれない。
そう、あたし達のような。今、あたしの後ろにいる悍ましい何かを操る力を持つかもしれない子供を。やがて“能力”に目覚めるだろう子供たちを――なんてね。
何ていうのかな、宗教施設――っぽかったかな。実際、あたしを拐った“幹部”って男は、いつも変な模様をした法衣のようなものを着ていたし、何かにつけてポエムのみたいな回りくどい言い方をしていたし。もっとも、あたしはあいつらの教義なんて知ったこっちゃないし、他の子達だって同じだった。
他の子達――そう、あの施設には沢山の子供たちが押し込められていた。まるで家畜のように、狭い部屋にぎゅうぎゅう詰めにされて、食事とも呼べないような餌だけを与えられて。
楽しいことなんて何一つなかったけど、唯一の救いは他の子達と仲良くできたことかな。年長で色々なことを知っていて、みんなのリーダー格だった江坂くん。ちょっと大人しすぎたけど優しかった立花弥生ちゃん。少しクールな九条響くん。天然でいつもボーッとしてた、ちーちゃんこと羽衣千早ちゃん。
何も楽しいことなんてなかったけれど、あの子達がいなかったら、一緒にお話したり、励まし合ったり、そういうのが無かったら――あたしは壊れちゃってたかもしれない。
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