隠れぬ片鱗


 翌日、宗谷の通っていた学校は急遽、休校となった。


 理由は、池田睦月が死んだから。彼が駅近くの路地裏で、上半身が喪われた状態の惨たらしい死体で発見されたから。理由も原因も解らない、誰にも理解しようのない、突如として起こった在校生の不可解な死。学校とその周囲の人間たちは、ひたすら意味のない情報の収集と整理に、そして上部組織や保護者たちへの説明に追われ、機能停止に陥るしか無かった。


 御影宗谷は閉ざされた校門を見上げ、唇を噛み締めた。慌ただしい校内を尻目に、その場を立ち去る。彼はその足で、すぐ近くにある病院へと向かった。


 ロビーを過ぎ去り、エレベーターを降りた先に、果てしなく長く、ひたすら白い病院の廊下が続く。宗谷は無言のまま、早足で進んでいく。その後ろを、羽衣千早が縋るようにして付いてきていた。彼女は頼りない足取りで、しかし物珍しげに辺りを見回しながら、彼の背中を追いかける。


 当初、彼は千早を連れてくるつもりは無かった。当然のことながら、危険だと思ったからだ。だが千早は、どうしても宗谷に付いて行くと言って聞かなかった。彼女の必死な眼差しに、何かを覚悟している、研ぎ澄まされて潤んだ瞳に負け、彼は仕方なく彼女を連れてきていた。


 宗谷は背後から付いて来る千早を、極力意識しないようにしていた。そうしていれば、誰にも、あの化け物にすらも、彼女の存在を悟られることはないだろうから。


 病院は静まり返っていた。宗谷は僅かに伏せていた視線を上げて廊下を見渡す。

かつて、この病院を訪れた時に“視えて”いた無数の残留思念が、廊下に溢れていた悲痛な叫びが、消えかけながらも反響していた呻きが――今は、消えていた。

彼はその意味を朧気に察し、口許を抑えた。


 やがて彼は足を止めた。ゆっくりと、まるでそれが嫌で嫌でたまらないことであるかように、緩慢とした動きで。目の前に掛かった名札を一瞥し、病室の扉を静かに開ける。


「久しぶり、だね」


 不意に少女の声がした。今里桜花の声だった。彼女は白いベッドに腰掛け、出し抜けにそう言い放つと、虚ろ気な瞳を揺らして、病室の中へ足を踏み入れんとする宗谷を見つめていた。


 その時、別の音がした。千早が息を呑む音。桜花の声を聞いた瞬間、宗谷はその小さな音を、微かな気配のうねりを背後から感じた。彼は誰にも気付かれないよう、千早の様子を伺った。


 千早は何かに驚いていた。これ以上無いほどに大きく瞳を見開いて、抑え切れない動揺から、身体を小刻みに震わせていた。掠れた声で、小さな声で、ひたすら何かを呟いている。


「ねえ、聞いてるの? 御影くん」


 再び、桜花の声。どこか気怠さを感じさせる、普段の明るくハキハキとした彼女からは考えられないような不気味な声色。不意に彼は、背筋から首筋にかけて強烈な悪寒を覚えた。


 宗谷は、ぞくりとする喉元の感触を強引に飲み下し、桜花を見据えた。


 刹那、彼の視界の中を影が揺らいだ。今里桜花の背後から、その着ている薄桃色のパジャマから、ベッドに添えられた白く細い指先から、彼女の全身という全身から、陽炎にも霧にも煙にも似た、しかしそれらとは明らかに異なる真っ黒な影が、ゆらゆらと浮かび上がっていた。


 思わず宗谷は口を開く。だが言うべき言葉は見つからなかった。彼は口を開けたまま、驚きと困惑の入り交じった思考を巡らせながら、その場に立ち尽くし、固まっていた。


「どうしたの――かな?」


 桜花は続ける。ゆっくりと、しかし問い詰めるようなねっとりとした言い方。


 宗谷はやっと口を開く。彼女の影に気圧されそうになりながら。


「あの音を、聞こえていないフリをしたのはミスだったね」


桜花は口の端を引きつらせ、それでも小首を傾げてみせた。


「はて、何のことかな」


「君が怪我をしたあの時、君は“何も視えず、何も聞こえない”素振りをしていた」


「ううん、だって何も視えなかったんだもの。何も――視えなかった。私には」


「それなら音は、どうなの。あの時、何も聞こえなかった?」


 桜花は答えなかった。引きつらせた口の端を更に歪め、作り笑いのように目を閉じ、首をふるふると振ってみせた。


「さあ?」


「あの時、君は何も聞こえてはいないようだった。でも実際には、あの“獣の叫び声”を聞いていたはずなんだ」


 宗谷は深く息を吸い込み、桜花の細く開かれた瞳の奥を見据えた。


「何故なら、あれの姿は見えなくてもその“咆哮”だけは、誰であっても聞くことができたはずだから。それなのに君には聞こえなかった。いや、君は聞こえないフリをして――」


「で? だから、何なの?」


 出し抜けに桜花は言い、宗谷の言葉を遮った。瞳は見開かれ、上目遣いに紫色に淀んだ視線を向ける。


 宗谷は息を呑んだ。桜花の言葉の端々から感じ取れる威圧に指先が震える。


「君には、あれの姿が視えていた。それを隠すために、あれのおぞましい姿が視えないフリをして、あれの耳をつんざく咆哮が聞こえないフリをしていた。でも、あれの姿が普通に視えて聞こえるからこそ、他の人にあれの咆哮が聞こえることに気づかなかった。気づいていたとしても、そこまで気が回らなかった」


「ふーん――」


「何故なら、君があれを操っていたから――あんなのを操りながら、何も視えない、聞こえないフリをするので精一杯だった」


「あのさ、御影くん」


 小さくため息をつき、桜花は静かに呟く。見開かれた紫色の瞳が段々と色を失い、光を失い虚ろになっていく。


「ホントなら、そんなの何の証拠にもならないんだけどね」


「ごめん、今里さん。でも、もう視えてる」


 もはや証拠など必要なかった。宗谷には視えていたから。今里桜花の隠しきれない闇の波が、彼の視界にははっきりと映り込んでいたから。


「なるほど、視えないモノが視える――だったかな? 厄介な“能力”だね。君がそういう力を持ってるって知った時点で、もう少し慎重に動くべきだったかもね」


 桜花の口許が更に歪み、歯が覗いた。上体がだらりと力を失ったように揺れるその刹那、彼女の背中から赤黒い霧が止めどなく、まるで血飛沫のように噴き出した。


 それは、化け物の片鱗。禍々しく混沌とした赤黒い霧は、少女へと覆いかぶさるように、その背後に吸い寄せられ密集していく。渦を巻くように絡み合うように混じり合うように。


 獰猛な眼が見開かれた。底が見えないほどに深く染まった漆黒の巨体と四肢、複雑に犇めき合うグロテスクな触手、重なり合う闇の奥から覗く裂けた顎とそこに無数に敷き詰められた血塗れの牙。


 そして聞こえる。ありとあらゆるものを喰らわんとする本能滾る雷鳴に似た唸り声が。


 あぁ――と宗谷は声にならない息を吐いた。やはり、そうだったのかという暗澹たる気持ち、言うべき言葉は何も出てこなかった。


 それは獣。幾度となく宗谷を付け狙ってきた、あの忌まわしき化物――“儚い沼の虚空”

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