予感
「こいつ、僕を観察している――?」
先程からずっと感じていたことを、思わず彼は口にした。
不意に宗谷の脳裏に、瑞穂の言葉が過ぎった。触手に絡め取られ、喰いちぎられる間際に彼女が決死に発した強い声。千早の方を見てはいけない、話しかけてもいけない、という警告。
いきなり、何の前触れもなく宗谷は顔を上げた。明後日の方向へ視線を動かして、まるで何かがそこにあるかのように、何も無い夜空をじっと、食い入るように見据えた。
彼の動きに呼応して、獣が動いた。顎まで裂けた口を開き、血塗られた牙を剥き出し、その巨体からは考えられない程の素早さで、化け物は宗谷の視線の先を目掛けて跳び上がっていた。
獣の注意が逸れた――彼はそう感じるやいなや踵を返して駈け出した。同時に、千早へ後を付いて来るよう声をかける。しかしその目線はずっと、彼女ではない、別の場所を向いていた。
宗谷は必死に駆け続けた。獣の咆哮が雷鳴のように遥か後方から追いかけてくる。彼は思わず目を瞑る。構わず足を動かす。悪夢から逃げるために、ただひたすら走る。走り続ける。
やがて獣の声が聞こえなくなると、宗谷は立ち止まる。彼は荒い息のまま執拗に辺りを見回し、周囲に獣の存在が無いことを確認してから、真正面に立ち尽くす千早の姿を一瞬だけ見やった。彼女は無事で、宗谷の走りにも懸命に付いて来ていた。彼は思わず安堵の溜息をついた。
「あの、宗谷さん」
千早は怯えた様子で
「一体、何が起こったんですか? それに――」
彼女は言い出しにくそうに続ける。どうして、あたしから目を逸らしているんですか、と。
「瑞穂ちゃんが教えてくれたんだ」
彼は、やはり千早の方を見ないようにして、短く応えた。
「僕は、君を見てはいけない。話もできない。あの獣が僕を――いや、君を狙っている間は」
●●
「つまり、化け物にも、あたしの姿は視えていない――ということですか?」
「たぶん、そういう事だと思う」
自分の部屋に戻ってきてもなお、宗谷は千早の方を見ようとはしなかった。
「瑞穂ちゃんが、化け物に――殺される直前、あの子は叫んだよね。君のことを見てはいけない。話しかけてもいけない、って。あの子はたぶん、考えていたんだ。化け物は、睦月を何の躊躇いも無く、すぐに食い殺してしまった。それなのに僕だけは殺さなかった。ただ観察するだけで、じっと様子を伺っているだけで、僕に対しては何もしない。それは何故なのか」
そこまで考えたとき、塚本瑞穂は気付いたのだろう。
自身が化け物の位置を探るとき、化け物の姿を視ることができる宗谷の視線を頼りにしていたのと同じように、化け物もまた、餌である残留思念の正確な位置を知るために、残留思念の姿を視ることができる宗谷の視線をあてにしていたのだ、と。だから彼女は即座に、宗谷へと警告した。痛みを堪え、決死の覚悟で。
「確かに、残留思念は自分以外の残留思念が見えないわけだし、君だって、化け物の姿は見えないだろう? それぞれにお互いのことが視えないのは、当然のことなのかもしれない」
「でも、瑞穂ちゃんは、そのせいで――それに、睦月さんという男の人も」
千早はそこまで言いかけて口を噤んだ。彼女も見ていたのだ。睦月が、瑞穂が、化け物に喰われるところを。宗谷は目を伏せる。だが後悔している時間は、悲しんでいる暇は、無かった。
「でも、どうして化け物は睦月を殺したんだ。それに――」
宗谷は小さく呟き、そして考える。
「ねえ、千早ちゃん。睦月は、君の友達の九条響って人では無かったんだよね」
「はい」
千早は即座に答えた。
「最初は解らなかったけど、あの人は響くんではないです」
睦月は、千早の親友であり、化け物の能力者であると思われる九条響では無かった。千早が言うのだから、それは間違い無いのだろう。
それなら何故、池田睦月は羽衣千早の写真を持っていたのか。そして何故、“約束の場所”で“約束の時間”に誰かを――恐らくは約束の相手である千早を――探していたのだろうか。
宗谷は、死ぬ直前の睦月の様子を思い起こしてみる。そう、どこか素っ気なく、何かに怯えてでもいるかのように落ち着きのない態度。それは、いつもの彼とは明らかに違っていた。
「脅されて、いたのか?」
不意に思いついた考えが、彼の口からこぼれた。
誰に? 何故? 何をしろと? 宗谷は目を瞑り、思考を続けた。
それは化け物を操る能力者に違いなかった。その人物は己が力の片鱗を、化け物の殺戮の力を、睦月に見せつけ、言いなりにしていたのではないか。その人物は、千早と“約束”をしていた。もしくは千早が親友と交わした“約束”を知っていた。そして、睦月に千早の写真を渡し、“約束の時間”に“約束の場所”で“約束の相手”である千早を探させていたのではないか。
そうだ。だから睦月は喰われたのだ。あの場所から逃げ出してしまったから。それは、化け物の操り人の言いつけに背く行為だったから。化け物は最初から睦月を狙っていた。最初から化け物は睦月を喰い殺すつもりだった。あの化け物は恐らく、操り人から事前に仕込まれていたのだ。
あの男が、指定した時間以内に、あの場所から離れたら、殺せ、と。
「だとしたら、やはり睦月が殺されたのは、僕のせいだ」
「でも――」
千早は宥めるように。
「そこまで宗谷さんが責任を感じなくても。そもそも化け物っていう化け物を操っている人が全部悪いんですよ。一体、誰が、なんでこんな非道いことを」
誰なのだろう。化け物を操る能力者であり、千早と何らかの関係があり、そして宗谷の能力のことを知っている人物。彼は、能力者となってしまってからのことを懸命に思い起こす。
「ちょっと、確認なんだけど」
宗谷は目を瞑ったまま、千早へと問いかけた。
「何を、ですか?」
怪訝そうな声で、千早は聞き返す。
「君も、普通の人間も、化け物の姿は視ることはできないよね。あれの姿を視ることができるのは僕だけのはずだから。でも、鳴き声は違う。雷にも似たあの化け物の鳴き声は、獣の咆哮は、君にも、普通の人間にも、そう、誰にでも聞こえるんだったよね」
「そうです。あの大きな音だけは、あたしにも聞こえますし、瑞穂ちゃんや他の普通の人達にも聞こえていました。前にも言いましたけど、あの音は九条響くんが能力を使うときに――」
「解ってるよ」
静かに宗谷は首を横へと振った。とても残念そうに、溜息をつきながら。
「そうなんだ。あの時、聞こえていたんだよ。あの化け物の鳴き声だけは――」
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