裂けた夜空の殺戮
あなたに月が見えなかったのは、闇夜に紛れた化け物の巨体に視界を遮られていたから。
瑞穂は言うより早く駆け出していた。釘付けになった彼の視線の先、夜空を横切る化け物を目がけて。
少女の手に光るものが見えた。小刀だった。以前と同じように、刃は蒼い光を帯びている。彼は悟った。瑞穂は化け物を仕留めようとしている。今、ここで決着をつけようとしている、と。
瑞穂はいきなり小刀を横に薙いだ。蒼の一閃が闇夜に迸り、月と僅かな星の浮かんだ黒のスクリーンに、レーザーに似た青白い残像が流れた。夜空を這うその一筋が、白く灼ける。
しかしその一閃は、化け物には届かなかった。獣は低い唸り声をあげながら身を屈め、簡単に少女の先制攻撃を避けていた。瑞穂と化け物の距離が離れすぎていたのだ。さらに、少女の放った斬撃の標準は、お世辞にも正確なものだとは言えなかった。
「駄目だ」
宗谷は思わず口にしていた。
「まだ、遠すぎる。それに狙いが甘すぎるよ」
「それなら、ちゃんと狙いますよ。だから宗谷さんもしっかり、化け物を見ていてください」
言われて宗谷は気付いた。瑞穂には化け物の姿が見えないのだ、と。
恐らく彼女は、化け物の姿を食い入るように見つめていた宗谷の目線から、その角度や方向から、敵の大凡の位置を判断して先手を打ったのだろう。だから狙いが正確ではなかったのだ。
化け物は、ビルの壁に張り付いていた。重力を無視するかのように、獣は壁に対して垂直に立っている。まるで獣の足元からだけは横向きの引力が発生しているかのようだった。
獣は首を横に向け、瑞穂を見ていた。化け物は、自身を攻撃せんとする存在に気付いただろう。見開かれた黄色の目玉は次第に細められていき、やがて宗谷は、獣が憤怒の感情をもって少女を睨んでいることを知った。
再び閃光が迸る。今度の狙いは正確だった。蒼の一閃は、獣の喉元をしっかりと捉えていた。
しかし、斬撃は外れた。化け物は閃光に触れる寸前のところで跳び上がっていた。獣の巨体が闇夜に紛れ、宗谷の視界から消えた。と同時に、化け物の立っていたビルの壁が、斬撃に抉られてガリガリと激しい音を立てる。彼は息を呑み、獣の姿を見つけ出そうと辺りを見回した。
やられた、と咄嗟に彼は思った。獣の細められた眼つきと不意に顕にした憤怒の表情。化け物は瑞穂を覚えていたのだ。そして警戒していた。だから獣は、次に相手が仕掛けてくるだろう攻撃を確実に避けるために、ビルの壁に張り付いたまま、じっと瑞穂を見据えていたのだ。
彼は夜空を仰ぐ。何もない。何度、目を凝らして見ても、夜の闇に溶けた化け物の姿は見当たらない。宗谷は仕方なく、横に立っている瑞穂へ視線を移した。途端に、少女と目があった。
少女の瞳は、大きく見開かれていた。だが、その焦点は合っていなかった。
どうしたのか。宗谷は事態を飲み込めぬまま、瑞穂の全身を眺めた。白い頬に赤い飛沫がこびりついているのが、口許から涎と鮮血の混じった液体が垂れ流されているのが、見えた。そして、少女のか細い胴体が、腹の丁度中心が、長くて丸い黒々とした何かに貫かれていた。
獣の触手だった。触手が、瑞穂の腹を貫通していた。少女の腹から溢れる鮮血が、彼女の衣服を赤く染め、その飛沫が彼の胸元や肩を濡らした。
「み、瑞穂ちゃん――!」
動揺の中で、やっとその一言だけを彼は言うことができた。
少女の腹から触手が抜ける。同時に夥しい血飛沫とともに瑞穂はその場に倒れた。宗谷は瑞穂に駆け寄る。少女は悲痛な呻き声をあげて、血の海の中で痙攣したようにのたうっていた。
宗谷には為す術が無かった。立ち尽くし、ただ苦しげに呻く少女を見下ろすことしかできなかった。動揺と無力さに指先が、膝が震える。
その時、背後から別の悲鳴が聞こえた。
即座に振り返った彼は、見た。道端に転がったそれを。
身体の一部を。下半身だけに成り果てて、血溜まりの中に浮かんでいる無惨な屍を。
宗谷は思い出していた。先程聞いた悲鳴、あれは誰の声だったか。
そうだ、あれは睦月の声だった。
そして打ち捨てられたように転がっている、あの下半身も睦月のものに違いなかった。
どうして?
彼は頭が、思考が揺れるのを感じた。
何故、睦月が腰から下だけの姿で転がっているのか。
上半身は、頭は、肩は、腕は、胴体は、どこへ消えてしまったのか。
屍の浮かぶ血溜まりに、黒い影が映っていた。
宗谷は視線を上げた。化け物だった。闇に溶けていた筈の獣の巨体。それは“何か”を咀嚼していた。噛み砕いていた。酷く生々しい音が響き、無数にある牙の隙間から、“何か”の汁が溢れ出ていた。
宗谷はそこで考えるのをやめた。獣が何を喰らったのか、知ろうとするのをやめた。
獣は“何か”を嚥下した。そしてその場から動かず、低い呻きを響かせ、正面から宗谷を見つめる。じろじろと、彼の狼狽える様を、揺れる視線に至る細部まで観察しているかのように。
足元から呟きが聞こえた。瑞穂の、血とともに吐き出される呪詛にも似た途切れ途切れの声。
「まさか、あの化け物の――目的は――」
少女の瞳が、何かに気付いたかのように見開かれた。瑞穂はげえげえと赤い息を吐きながら言葉を絞り出す。
「だから――化け物は、千早さんのことが――」
そうだ、千早は無事なのか。と、彼は瑞穂の言葉で我に返った。彼は思い出す。化け物が喰らうのは生きた人間だけでは無かった。むしろ、あれは残留思念の方を好んで喰らうのだ。
宗谷は顔を上げ、千早を探そうと彼女の名を呼んだ。即座に背後から怯え竦んだ少女の声が返ってくる。よかった、無事だった。宗谷は僅かな安堵と共に声のする方へ振り返ろうとした。
「駄目です! 宗谷さん。千早さんの方を見てはいけない! 話しかけてもいけない!」
怒鳴るような瑞穂の言葉。宗谷は反射的に動きを止め、足元に横たわる瑞穂を見た。少女は血飛沫に塗れた蒼白な顔で、決死の眼差しで、彼を見上げたまま、首を横へと振っていた。
その刹那、獣が吼えた。
まるで、目の前の餌を急に取り上げられた猛獣の如く、獰猛な眼をことさら細め、牙を剥き出しにして。化け物は怒り心頭な、憎悪に満ち溢れた雄叫びを発した。
瑞穂の小さな身体が、黒い何かに拭われて消えた。
無数に闇を這う、獣の触手だった。
それは少女の腰や四肢、全身の肌に喰らいつき、引き摺り、宗谷の遥か後方で彼女を磔にした。
苦しげに呻き喘ぎながら、瑞穂は手にした小刀を決死に振るう。少女の身体を這いずり舐める触手の幾本かが蒼い斬撃に切断された。だが、それは悲しい程に些細な抵抗に過ぎなかった。
瑞穂がやけくそのように振るい続ける小刀から発せられる閃光が、蒼からやがて赤みを帯び、ついに紫色に達したその時、少女の姿は触手の闇の中に飲み込まれ、見えなくなった。
「瑞穂ちゃん!」
宗谷は少女の名を呼んだ。しかし、反応は返ってはこなかった。
触手の蠢きの中から、闇の塊の奥から、少女の反応が返ってくることは決して無かった。
触手の先端に生えた牙が、何かを頻りに齧る音が聞こえた。やがて、密集していた触手は離れる。しかし、そこに瑞穂の姿は無かった。ほんの一欠片も残ってはいなかった。ただ、地面に降り注いだ夥しい量の血飛沫だけが、辺り一面に痛々しい模様を形作っていた。
宗谷の肩が、唇が、そして全身が震えた。彼はそのまま身体の向きを変え、獣と向き合った。
化け物の全身から生えていた無数の闇が、瑞穂を齧り尽くしたグロテスクな触手が、次第に短くなって黒い巨体に戻っていくのが見えた。
その足元には無造作に転がる睦月の下半身と、それから流れ出た血溜まり。強烈な血の臭いと胸苦しさに宗谷は顔を顰め、口で息を吸い、歯を噛み締めて、獣を睨みつける。
化け物はずっとその場から動かず、ただ宗谷だけを凝視していた。
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