黒の月、偽りの朔


 街の駅前は、やはり大勢の人々で溢れていた。改札の奥に見える時計は、夜の九時を少し過ぎたあたりを指し指し示しており、この時間では、まだまだ街の喧騒は止みそうにない。宗谷は人々の隙間を縫うように歩き、しかし、一緒に来ている千早と瑞穂を見失ってしまわないように注意しながら、その人物の姿を、九条響だと思われる者の姿を探した。


 やがて、宗谷は立ち止まった。見つけてしまった。あっけないほど簡単に、その人物は目の前にあらわれた。そして彼は見た。その者が左手に掴んでいる紙切れを、その内容を。


 嘘だろ、と宗谷は心のなかで呟いた。信じられなかった。所詮は限られた情報の中で、あてずっぽうに組み立てた推測に過ぎなかった。間違っていたなら、それでもいい。やっぱり単なる偶然だったんだ、思い違いだったんだ、とすぐに忘れられただろう。


 だが、“彼”は宗谷の眼前に、背を向けて立っている。その紙切れを大事そうに握り締めて、ずっと誰かを探している。それは、もはや偶然などではなかった。この街で、羽衣千早と出会い、言葉を交わした時から始まっていた、どうすることもできない必然だった。


「なあ、いつから、そこで待ってるんだ?」


 宗谷は相手の背後から、はっきりと聞こえるように、大きな声で話しかけた。


 その相手は、池田睦月は驚いたように、びくりと肩を震わせた。すぐさま振り返り、敵意と僅かな怯えを含んだ眼差しで、宗谷の方を睨みつけた。


「なんだ、宗谷か」


 睦月は、相手が友人であることを認識したのか、素っ気ない声を返した。表情を緩め、緊張から開放されたように深い溜息をつく。宗谷はふと、睦月の素っ気ない言葉に、その深い溜息に、安堵と、そして落胆にも似た感情が混じっていることに気づいた。


「あんまり脅かすな。というか、また、ここで会ったな」


「そう。以前にも何度か、ここで、この駅前で会った」

 宗谷は応える。


「もう何回目だろうな。そういえば、前もその小さな子がいたな。隣の部屋の子、だったか」


 宗谷の傍らに立っている瑞穂を見ながら、睦月は言った。瑞穂は無言のまま睦月へ会釈した。


「なあ、睦月。もしかして、誰かを探しているんじゃないのか?」


 宗谷は一気に問いかけた。宗谷は最近、バイトからの帰りが遅くなったときに何度か睦月の姿を見かけていた。それは決まって夜の九時頃であり、この駅前でのことだった。駅前で見かける睦月の姿は、いつも何かに焦り、必死で誰かを探しているかのように、彼には見えていた。


 あの時もそうだった。化け物が、血塗れで泣いている女の子の霊を無惨に喰らった、あの夜も。


 だからこう推測した。もしかすると、池田睦月が九条響なのではないか、と。彼は約束を果たすために、約束の時間、約束の場所で、約束通りに羽衣千早が来るのを待っていた。そしてずっと、約束どおりに来ているはずの彼女の姿を探していたのではないか、と。


 宗谷は背後に佇む千早の様子を伺った。彼が、九条響かどうかを確認するために。だが、千早は困ったような表情をしていた。眉間に皺を寄せ、よく解らないと言いたげに首を横へ振る。


「あの、すみません。よく、わからないんです。私は子供の頃の響くんしか知らないから。確かにこの人は、響くんに似ているような。でも、少し違うような気もしますし」


 無理もない。あれから七年も経っているのだ。宗谷は再び睦月の方を向き、彼の手にしている紙切れへと視線を落とした。目を細め、彼はその紙切れを、写真を見つめたまま問いかけた。


「なあ、その写真、どうしたんだ? それは、“誰”なんだ?」


 睦月が息を呑む音を、宗谷は聴いた。反射的に睦月は手にしていた写真を隠そうとした、が、その腕は急に動きを止めた。それまで黙って佇んでいた瑞穂が、恐ろしい程の素早さで彼の手首を掴んだのだ。少女は顔を上げ、感情を押し殺したように無表情のまま、睦月へ問いかけた。


「なんで写真を隠そうとするんです? 池田睦月さん。宗谷さんが訊いてるじゃないですか」


 言いながら、瑞穂は睦月の腕を強引に引っ張り上げた。少女の小さな掌のどこにそんな力があるのかと、宗谷は唖然としつつ、睦月の手にしている写真を見据えた。


 古ぼけた写真だった。安物のカメラで撮られたものなのだろう。ピントは合っておらず、異様に暗く、そこに写ったものを見るために、宗谷は目を凝らさなければならなかった。


 写真に写っていたのは、宗谷がよく知る女の子の姿だった。薄汚れた床に座り込み、疲れきった表情を隠そうともしない少女の全身。宗谷の知っている彼女よりも少しばかり幼く見えたが、それは紛れもなく、羽衣千早の姿だった。


「この写真、もしかして、あの時の――」


 宗谷の背後で、千早が驚いたように呟いた。


「施設にいたとき江坂くんが、どこかから使い捨てのカメラを拾ってきて、みんなで隠れて写真を撮りあったことがありました。もちろん現像なんてできなかったけど。たぶん、これはその時の写真です。たしかあのカメラは江坂くんが死んだ後、響くんが隠し持っていた筈です」


 宗谷は千早の言葉を聞き、睦月の表情を伺った。睦月は苛立ったように口の端を引き攣らせている。彼は腕を振り上げ、瑞穂の手を乱暴に振り解くと、吐き捨てるように言った。


「そんなことは、お前には関係ないだろ」


 睦月の言葉を無視し、宗谷は問いかける。


「その、写真の女の子を探しているのか?」


「だから、関係ないって言っているだろ。お前こそ一体、どうしたんだ?」


 自分から訊いておきながら、睦月は話を切り上げるように背を向けた。早足に歩き出し、誰もいない裏通りへ立ち去ろうとする。宗谷が睦月を追いかけようとした、その時だった。


「ちょ――ちょっと、待ってください」


 瑞穂はそう言い、宗谷を呼びとめた。彼は振り返る。少女は蒼白な顔をしていた。宗谷は息を呑んだ。少女の瞳が強烈な憎しみの色を帯びていたから。それは、あの鬼の目そのものだったから。瑞穂は震えを堪えるように唇を噛みつつ、その鬼気迫った表情で夜空を見上げていた。


「これは――」

 少女の頬が引き攣る。

「宗谷さん、あの化け物が――化け物の姿が、この周辺に視えませんか? 恐らく化け物はこの近くにいる。感じるんです。大樹くんが殺されたときに感じたのと同じもの、このざらざらで、ぬるぬるとした気持ち悪い感触を。そう、間違いない」


 宗谷は慌てて、辺りを見回した。様々な明かりが交錯する駅前を、それらと相反するように暗いビルの影を、星の見えない黒の夜空を。そして、彼は気づいた。


 月が見えないことに。今夜は新月では無いはずだった。雲に隠されているようでも無かった。宗谷は目を凝らす。しかしそれでも彼の目には、そこにあるはずの月は欠片も見えなかった。


 宗谷は小さく独りごちた。月が見えない、と。その時、隣に立ち彼の視線を目で追っていた瑞穂が、何かに気付いたように深く息を飲み込んだ。少女は焦燥と狼狽の混じった声で言った。


「いえ、私には月が見える。丸い月が、ちゃんと。あなたに月が見えないのは、たぶん――」


 夜空が割れた。そして雷鳴に似た音が轟き、瑞穂の声を掻き消した。宗谷の視界に広がる夜空の裂け目は、鮮血で満たされたように真っ赤で、その淵には無数の鋭い牙が犇めいていた。


 獣の巨体が、そこにあった。黒々とした触手、喰らうという本能に染まった黄色い眼球、血塗れのように赤黒い牙。それは紛れもなく、あの化け物、不気味でおぞましい化け物の姿だった。

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