彼の亡骸はなく、残されたのは或る覚醒


 我に返ると同時に、少女は何かを手にし、握り締めていることに気付いた。彼女はリビングに、血溜まりの中央に呆然と立ち尽くしていた。何をしていたのか。微動だにせず少女は考える。何故、私は生きているのか。喰われていないのか。無意識だったときの記憶は朧気で、はっきりとは思い出せない。ただ、何かをしていた気はする。憑かれたように、ひたすら何かを。


 不意に瑞穂は咽に痛みを感じた。ずっと叫んでいたかのように声が出ない。代わりに漏れるのは、掠れた息遣いだけ。脱力し、少女は息を吐き出す。同時に、生温い風が頬を掠めた。


 見ると、窓ガラスが割れていた。不自然な割れ方をしている。その断面には、叩き割ったときのようなヒビ割れは無く、レーザーで切り抜いたような直線的で綺麗な跡だけが見てとれた。


 破壊されていたのは窓だけでは無かった。部屋を見回すと、テーブルやソファなど、リビングにある大半の物が無惨に斬り裂かれていた。少女は瞳を見開いた。


 何が、あったというのか。


 大樹を殺した“何か”がやったのでは無いと思った。あれの壊したドアの破片、強引に叩き砕かれたような跡は、斬り裂かれているこれらの傷跡とは根本的に異なるものだったから。


 瑞穂は、ふと手にしていた“それ”を見つめた。狼狽に指が震える。まさかと思う気持ちと、そうに違いないという気の迷い。少女は横目で壁に掛けられたカレンダーを見つめた。指先に力を込め、握り締めていたそれを、小さな果物ナイフを、静かにしかし素早く薙いでみる。


 刀身が、蒼い光を放った。眩い一閃が壁を這う。途端、触れてもいないカレンダーの下半分が落ちた。壁が裂ける。音を立てて抉れていく。閃光の掠めた部位だけが、断ち斬られていく。


 少女の手から刃物が滑り落ちた。刹那、閃光と共に記憶が脳裏へ蘇る。涙に濡れた叫声。刃が空を斬る音が。醜悪な気配を断ち切らんと獣へ斬り掛からんとする、夜叉の如き自分の姿が。


   ●●


「あの日から、私は夢を見ました」


 無機質で沈んだ口調のまま、瑞穂は続けた。


「大樹くんや、あなたが見たのと同じ“流星の降り注ぐ夢”を。そして気付いた。大樹くんは能力者だった。そして私も能力者になってしまった。つまり、あの夢を見ることが能力者の証なのだと。それから、私は大樹くんの遺した資料を調べました。能力者のこと、文明のこと。すべては――」


「すべては?」


 宗谷は聞き返す。俯いていた少女は顔を上げ、円らな瞳を細めた。


「あの獣への、化け物への復讐のため。大樹くんを殺したあれを、私がこの手で殺すために。そして許されるなら、あの化け物を操っていただろう能力者にも、大樹くんと同じ痛みと苦しみを――」


 そこまで言って、少女は我に返ったように口元に手をやる。しかし、細められた瞳の奥には強烈な怨磋の色が渦を巻いていた。


 宗谷は少女の底の見えない闇色の瞳を見据え、口をあんぐり開けたまま言葉を失った。


「まあ、それは、ともかく」


 憎しみを露わにしたことを恥じるように、彼女は視線を逸らした。


「偽典の記述によれば――かつてその文明には、神から力を授けられた“白の使者”と普通の人間である“灰の民”が存在していたそうです。白の使者とは他の宗教でいうところの“天使”に似た存在で、人や動物を護り導く役割があったようです。ですが、白の使者達は、自分より劣った者達を護ることに疑いを抱き、やがて人々を奴隷のように扱うようになります」


 幾分落ち着いた様子で、少女は傍らに置いていた偽典を手に取り、徐にページを開いた。


「彼等の蛮行に、神は怒ったそうです。神は空を割り、六百六十六もの流星を放ち、白の使者達を次々と射抜いていきました。白の使者達は流星に貫かれ、力の源ごと砕かれました」


 少女の開いた頁に描かれた光景。それは彼が何度も見た、流星の降り注ぐ夢そのものだった。


「流星はまた、大地を引き裂き、白の使者達の亡骸を、砕かれた力の欠片もろとも地の底へと突き落としました。しかし、力の欠片の一部は地の底へは墜ちなかった。それらは誤って、灰の民へと降り注いでしまっていたからです。やがて、力の欠片を浴びた灰の民の中に、白の使者に似た、特殊な能力に覚醒する人々があらわれました」


「つまり、それが――能力者、ということ?」


 宗谷は呟く。少女はこくんと、小さく頷いた。


「そうです。だから、あなたや私達は、能力に目覚めた途端に同じ夢を見たんです。あの夢の正体は、私達の中で燻っている能力の欠片が見せている、白の使者の記憶。その断片だから」


「だとすると」


 宗谷は手を口に当て呟く。


「僕らは、能力者である灰の民の子孫だと?」


「かもしれません。でも、もし能力が遺伝するのなら、現在の能力者の数は相当数に上るはず。しかし実際には能力者の存在は一般に全く知られず、現存数はとても少ないと考えられます」


「それなら、どうして君や僕は能力者になってしまったの? 一体、何がきっかけになって」


「能力は、必ずしも遺伝するというわけではない。となると――ここから先は、偽典の記述からの憶測になりますが、私たち能力者は、“感染”してしまったのではないでしょうか?」


「感染?」

 予期せぬ瑞穂の言葉に、宗谷は思わずオウム返しのように同じことを聞き返した。


「偽典には、こう記されているんです――みだりに能力者に触れてはならない。偽りの翼は汚れ、その澱みは魂に感染し、血を濁し肉を腐らせ、新たな能力者として再び人々を拐かす――と。つまり能力者の因子は、ごく稀に近しい人間へ感染することがあるということ。私の能力は恐らく大樹くんから感染した。大樹くんもまた、誰かから能力者の因子を感染させされた」


「それなら僕も、身近な誰かから能力者の因子が感染したということ?」


「その通りです。そして時期的に考えて、その能力者が、化け物の操り人である可能性が高い」


 不意に瑞穂の表情に鋭さが甦る。彼は頭の芯を殴られたような衝撃を覚えた。化け物の操り人。瑞穂の大事な人を殺し、自分や千早を襲った者。それが身近な誰かかもしれないという事実に。


「大樹君を殺されたときに感じた哀しみ、自分が喰われそうになったときの恐怖。それは私の中に深く刻まれました。だからでしょうか、私は化け物を見ることはできなくても、その気配を僅かに感じることができる。あの日以来、私はその気配を辿って、化け物を追っていたんです」


「そして僕が襲われている場所に出くわし、監視を始めた。それも全部、復讐のために?」


 宗谷の問いに少女は頷く。今更、何を解りきったことを訊くのだ、とでも言いたげな表情で。


「ええ、あの獣は殺さなければならない。あぁ、そう言えば、私が隣の部屋に引っ越してきてから、時折、大きな音がしていたかと思います。あれは先程のように、私が化け物と戦っていたときの音です。宗谷さんが気付いていたかどうかは知りませんが、あの獣は、かなり頻繁にこの辺りを徘徊しています。やはり、あれも何かの理由で、宗谷さんを監視しているんですよ」


「だから、君は足を怪我していたんだね。部屋にあった無数の傷跡も、その時についたんだ」


 眼前に迫っていた獣。あの時の、冷淡な瑞穂の態度と怨嵯の瞳。やっと、その理由が解った。


「そう。この部屋で、あの獣の気配がするのを、ずっと待っていました。チャンスは何度かあった。でも仕留められなかった。あの獣の俊敏さと圧倒的な力に、太刀打ちできなかったから。


 本当は誰にも知られず、あれを始末したかった。でも結局は、宗谷さん達を騙して、巻き込んで、危険な目にまで遭わせてしまった」消え入りそうな声で呟き、瑞穂は深々と頭を下げた。


「もういいよ。そんな謝らなくても。それに僕や千早ちゃんは、君に助けられたんだから」


 躊躇いがちに顔を上げ、瑞穂は微かに口許を緩めた。

「宗谷さんは優しいですね。本当に」


 そう少女は言い、ふと何かに気づいたかのように目を見開いた。真正面からまじまじと大樹を見つめ、彼女は小首を傾げると、何故だか恥ずかしげに、そして淋しげに、こう囁いた。


「宗谷さん、どこか似ていますね。私の好きだった、大樹くんに。そう、とっても似ている」

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