少女は彼の血に染まる


「つまり、えっと――何だっけ、なんとかかんとか。大樹くんは、それを調べているんだね」


「“文明”だよ、瑞穂ちゃん。とっても古い、大昔の人々のことさ。で、この本は“偽典”っていうもの。文明の遺跡から発見されたらしいんだけど、本当かどうかは解らないけどね。考古学研の知り合いから借りてるんだけど、本物なら普通そんなところには無いだろうから」


 手にした書物を眺めつつ、大樹は苦笑する。瑞穂は覗き込むようそれを見つめ、首を傾げた。


「でも、どうして大樹くんは、そのなんとかを調べているわけ?」


 大樹は無言で書物を開き、瑞穂へ見せる。文字に似た模様と共に、ある風景が描かれていた。


「これは――」

 瑞穂は、大樹の開いた頁に描かれた奇妙な光景を見つめ、息を呑んだ。


 黒い空が割れていた。ひび割れた空の隙間は血のように赤く、しかし僅かに白い光を漏らし、点々と偽りの星として瞬いている。荒涼とした果て無き大地には視界を遮る何物も無く、嘘の輝きは重力に牽かれて墜ち始め、光の筋は驟雨の如く、空と大地の境界線へと降り注いでいる。


「前に言ったよね」

 大樹は、瑞穂の反応を確かめるかのように。

「最近、変な夢を見るって。闇の中で流星に貫かれる夢。ずっと気になって調べてたんだ。何かの暗示のようなあの夢の意味を。そして見つけた。偽典に描かれているこの風景は、あの夢にそっくりなんだ」


「だから、その書物のことを、それが発見された文明について調べていた、ってわけだね」


「そう」

 大樹は頷く。

「ネットは本当に便利だね。何でも的確に、すぐさま調べられる」


「でも――」

 瑞穂は、足の踏み場も無いほどに資料で散らかっている部屋を見回し。

「この部屋の有様を見ると、まだ何か調べ足りないみたいだね」

 小首を傾げたまま、呆れたように呟いた。


「まあ、ネットの情報なんて広く浅くだから。それで知り合いに資料を借りて調べてるんだ。いろいろ解ったこともあるんだよ」


 大樹は屈むと、床に落ちていたシステム手帳を拾い上げた。


「この手帳に、その研究の成果をまとめているんだ。それで解ったんだけど、僕は――」


 その瞬間、大樹の口が止まった。声が途切れる。瑞穂は、どうしたのかと大樹を見やり、思わず眉をひそめた。咽は小刻みに震え、唇は色を失い、額に冷や汗が滲んでいる。緊急停止ボタンを押され、いきなり稼動停止したロボットのように、大樹は急に動きを止めていた。


「ねえ、大樹くん。どうしたの?」


 心配そうに、しかし訝るように少女は大樹の顔を覗き込む。


「いや、何でもないよ」

 瑞穂の問い掛けで我に返ったのか、慌てたように大樹は首を振った。

「ちょっと喋り過ぎたみたいだ。本当に大丈夫だから、心配しないで」


 瑞穂は合点のいかない表情のままで、大樹を見つめた。ちょっと喋りすぎたみたい、と彼は言った。少女は考える。では一体、何を喋りすぎたのか。何を喋ろうとしていたのか、と。


 訊いてみようと瑞穂が口を開きかけると、大樹は少女から目を逸らした。その視線は明後日の方を向き、誰もいない虚空を捉えている。彼の困惑したような表情、外された眼差しの先、そこにふと瑞穂は明確な意志があるのを感じた。まるで都合の悪いことを問われ、困り果てて仕方なく近くにいる誰か、瑞穂の背後に立つ誰かとアイコンタクトをとっているかのような。


 まさか、とそこまで考え、瑞穂は首を振った。ここには、この部屋には自分と大樹くんしかいないのだ。一体、誰と視線を交わすというのか。少女は思わず溜息を漏らす。


 その時だった。


 背後でドアが激しい音を立てた。何かを抉り、砕くような音。瑞穂は咄嗟に振り返った。そして見た。半開きのドアに空いた無数の穴、金槌で何度も叩きつけたかのような無惨な傷跡を。


 何なのだ、これは。訳が解らず、瑞穂は身体を仰け反らせた。その弾みで、少女のか細い背中と大樹の身体が触れる。彼女は顔を上げ、半ば脅えたような表情をして、大樹を見やった。視線は合わなかった。瑞穂が背中越しに見上げた彼は、しかしこちらを見てはいなかったから。


 彼の瞳は、やはり虚空を捉えていた。やがて茫洋としたその瞳が大きく見開かれ、愕きと恐れの綯い交ぜになった表情を形作る。一瞬の沈黙の後、大樹は声を張り上げた。叫びというよりも、喚き声に近い怒声。瑞穂の脇を擦り抜け、彼は声を上げながら“何か”へ飛び掛かった。


「やめろ! その子に何をするんだ! このバケモノ、その子から離れろ!」


 次の瞬間、彼の身体は見えない何かに弾き飛ばされた。瑞穂の眼前で、大樹は床に突っ伏す。彼は低い呻きを上げる。同時に木々の擦れる音が聞こえた。ドアが小刻みに震え軋む音だった。


「な、何これ。一体、何が起こって――」

 瑞穂は呆然と立ち尽くしたまま呟いた。


 大樹は苦痛に顔を歪めつつも起きあがり、何かへと訴えかけるかのように言葉を放った。


「やめるんだ。やめてくれ! その子をどこへ連れて行くんだ。どうするつもりなんだ!」


 虫食い状になってしまったドアを払い除け、大樹は、ふらつく足取りで部屋を飛び出した。


「だ、大樹くん。ちょっと待ってよ。何なの、何があったの、ねえ」


 瑞穂は慌てて大樹の後を追う。だが、大樹には瑞穂の声は届いていないようだった。彼は譫言のように、やめろ、やめてくれと呟きながら、倒れるような勢いでリビングへと駆け込んだ。


 部屋に飛び込むなり、大樹は再び怒声を発した。飛び込んだときの勢いそのままに床を蹴り、部屋の中央に陣取っているのだろう何かへと詰め寄ろうとする。その途端、血飛沫が上がった。


 遅れてリビングへと足を踏み入れた瑞穂は、それを見てしまっていた。部屋中に驟雨のように降り注ぐ真っ赤な飛沫、それがみるみるうちに白い壁を血の色に染めていくのを。そして、大量に噴き出し続けている血飛沫の根源となってしまった、塚本大樹の惨たらしい姿を。


「だいきくん――?」


 脱力したように、少女はその場に座り込んだ。叫ぶことも悲鳴を上げることもできず、魂の抜けたような茫洋とした瞳で、ただ目の前にある大樹の姿を見つめることしかできなかった。


 リビングの真ん中で大樹は宙に浮いていた。いや、正確に言えば、彼は“見えないが、鋭く長いであろう何か”に、腹や四肢を串刺しのように貫かれ、磔にされていた。全身の傷から鮮血が止めどなく溢れ、部屋全体に飛び散り、気が付けば少女自身も彼の血に染まっていた。


 大樹は苦痛に呻きながらも、涙の滲んだ瞳で虚空を見つめ続けていた。だが、やがて彼は悲鳴を上げた。悲痛な彼の叫び声を聞きながら、瑞穂は不意に思った。大樹くんのこの叫びは、痛みからくるものとは違うのではないか、と。先程から大樹くんが庇おうとしていた“大切な何か”が喪われたことに対する、悔恨と哀しみの発露なのではないか、と。


 大樹の悲鳴が、急に途絶えた。少女は我に返り、宙で磔になっている彼の姿を見やった。


 彼の上半身は、プレス機で挟まれたかのように歪み、拉げていた。同時に嫌な音がした。獣が獲物を喰らう時のような、血腥く生々しい音。無数の牙に弄ばれているかの如き凹凸が、彼の身体の表面に浮かび上がる。少女は息を呑み、大きく見開いた瞳で、それを目の辺りにした。


 大樹が潰れた。彼の肉片や体液が部屋中に飛散する。続けて少女は見た。彼の身体が消えるのを。存在そのものを拭い去られたかのように。透明のベールで覆われてしまったかのように。


 消えたのではない。喰われたのだ、と瑞穂は何故だか理解した。恐怖に研ぎ澄まされた少女の本能が、感じ取っていたから。眼前に鎮座する黒く邪悪な獣の気配を。だから悟った。その見えない獣が、大樹の身体を貫き、頭から噛み砕き、そして全身を喰らい尽くしたのだ、と。


 少女の胸元に冷たく湿った何かが触れた。大樹を喰い殺した“見えない獣”に違いなかった。獣は瑞穂の鼻先まで迫り、大樹を貫いたのだろう身体の一部で、少女の幼い身体を舐めていた。


 愕き、瑞穂は身体を仰け反らせた。声にならない悲鳴を上げる。背筋を悪寒が駆け、心臓が痛みを感じるほど急速に縮んだ。縮みきった胸の中に、黒々とした恐怖が溢れ出していた。


 自分も殺される。大樹くんのように。潰され、惨めに喰われる。血塗れで、ぐちゃぐちゃに。


 音がした。誰かの泣き叫ぶ音。瑞穂は最初、それが自分の声だとは気付かなかった。それ程に錯乱し、恐れに満ちた声だったから。恐怖に震えて、涙に濡れていて、哀しいほどに情けない声だったから。突然のことでそれまで表に出なかった感情が、大樹を殺された憤怒が、憂いや戦慄が、それら諸々の激情が混濁し暴走し、ついに破裂してしまったかのようだった。


 少女は泣き喚きながらも、腹をまさぐる異物を懸命に拒んでいた。部屋の片隅に後ずさろうとして滑る。床は彼の血と、少女の失禁に濡れていた。瑞穂は身体を丸め、身悶えた。無気味な獣の接触からも、大樹が死んでしまったという事実からも、すべてから逃避するかのように。


 自分は恐怖に負けて狂ってしまったのだと、意識の途絶える間際、その一瞬、少女は思った。

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