瞳から流れる殺意と涙


「確かに、僕も襲われたから、それは解るよ。あの化け物は、とても危険な存在だって。でも、逆に解らない。どうして僕を襲ったのか。僕に付きまとっているようでいて、僕には危害を加えず、女の子の霊を飲み込み、そして千早ちゃんまで食べようとしたのは、何故なんだ?」


「“儚い沼の虚空”には中身が無いから。空虚であるが故に、己を満たそうとする獣の本能は、必然的に純度が高く密度の濃い、強い意志や感情を欲する。つまり、千早さんのような残留思念は――」


 厭らしい言い方になりますが、と前置きした上で、瑞穂は躊躇いつつも言い切った。


「絶好の餌に、大好物になるわけです。尤も、あれは何かを喰らったところで飢えが満たされるわけでも糧となるわけでも無い。ただ“無”とするだけ。先程も言いましたが、あれは生き物では無いんです。獣に似た気配や挙動に惑わされがちですが、それは操り人に与えられた、空虚な自身を維持する為の偽りの形と本能に過ぎない。あれの本質は、ただの歪み。有たる存在をひたすら喰らい吸い尽くし、無に塗り潰してしまうだけのブラックホールのようなもの」


 宗谷は頷き、しかし合点がいかぬ様子で首を傾げる。


「千早ちゃんを飲み込もうとした理由は解ったよ。でもそれだけだと、あの化け物が僕に付きまとう理由にならない。君だって化け物が近くにいるからこそ、僕を監視していたんだろう?」


「化け物は、偽りの本能に従って動くだけの獣に過ぎません。わざわざ、あなたに付きまとい何度も目の前に姿をあらわすのは、あれ自身の意志でなく、あれに形を与えてそれを操る能力者、つまり操り人の意向によるものではないかと、私は考えています。ですが、どうして宗谷さんなのか。喰らうわけでも危害を加えるわけでも無いのは何故なのか。その意味が解らなかった。だから私は、隣の部屋に引っ越して、気付かれないよう宗谷さんの監視を始めたんです」


「どうして、何も言ってくれなかったの」


 強い口調にならないよう気をつけて、宗谷は言った。


「すみません」

 瑞穂は呟き、眼を伏せる。


「でも、最初の時点ではまだ、あなたが何の能力者か解らなかった。化け物が触手であなたとクラスメートの女の人を襲ったとき、私もあの場所にいました。とある理由から私は、化け物の姿は見えなくても、その大体の気配を感じることができるから。


 あの時、気配を察知して化け物を追った私が見たのは、見えない筈の化け物の姿を視ている宗谷さんでした。私は、すぐに宗谷さんが能力者であることに気付きました。でも、何の能力者かまでは解らなかった。


 あの時点で私が解っていたのは、あなたが化け物を視ることができる、と言うことと、化け物が――操り人が、あなたに何らかの狙いを定めている、と言うことだけ。最悪の場合、あなたが化け物の操り人である可能性すらあった。また、そうでなくても、化け物があなたの近くにいるということは、操り人もまた、あなたの近くにいるということ。あなたの知り合いであるかもしれなかった。


 いずれにせよ、あなたがどんな人間か解らないうちに、化け物のことをあなたに話すのは、お互いに危険だと判断したんです。でも――」


 小さく溜息をし、瑞穂は肩を竦めて見せた。


「とりあえず心配の必要は無かったようです」


「僕が操り人じゃなかったからだね。その書物が――偽典とやらが証明してくれたわけだ」


「いえ、もう気付いていました。千早さんを助ける為に、必死になって化け物に掴みかかろうとする宗谷さんの姿を見たときに。この人は、化け物の操り人ではないと確信していました」


「僕が、演技をしていた可能性はあるだろう?」

 少々意地悪く、宗谷は訊いた。


「それは無いです。あの時の宗谷さんの後ろ姿、そっくりだった。だから信じようと思った」


「そっくり? 誰に――」


「塚本大樹――私の一番大切だった人。唯一の家族だった人。その人は、あなたと同じ能力を持つ能力者でした。そしてあなたと同じように、化け物に襲われた残留思念を庇おうとした」


 一瞬の沈黙。無意識に宗谷は身構える。瑞穂は痛みを堪えるように眼を瞑り、唇を震わせた。


「そして喰われた。殺された。大樹くんは、あの化け物に喰い殺されてしまった」


 不意に目眩を覚えた。瑞穂の唇の震え、言葉尻の掠れが、彼の思考と感情を揺さぶっていた。


「だから私は――あの化け物を、“儚い沼の虚空”を殺さないといけない」


 少女は蒼い鬼の眼を大きく見開き、言い放った。あれは生き物でない、と自分で言っておきながら、あえて選んだ“殺す”というどす黒い言葉。刺すような怒気と殺意を帯びていながら、しかしその言葉はどこか哀しげで、霧に濡れてでもいるかのような湿っぽさを、宗谷は感じた。


 ふと見ると、瑞穂の頬を、首筋を一筋の涙が伝っていた。懸命に歯を食いしばり、涙の溜まった瞳で上目遣いに宗谷を見据え、少女はしゃくり上げているかのように肩を揺らしていた。


   ●●


 無気味なほどに大きく白い月が、闇の中にぽっかりと空いた穴のように夜空に浮かんでいた。風は無い。二階の窓から覗く景色にも人影は見えない。異様な静けさだけが辺りを包んでいる。


 塚本瑞穂は、不満げな面持ちで窓の外をじっと眺めていた。ぽつりぽつり見える星を、特にこれといった目的も理由も無く数えている。やがて少女は小さく呟いた。つまんないなぁ、と。


 少女の不機嫌な呟き。それには理由があった。大好きな大樹くんが、最近あまり相手をしてくれなくなったから。沢山お話ししたいことがあるのに、ずっと自室に篭もりきりだったから。


 大樹くん――塚本大樹は、瑞穂の幼馴染みだった。そして両親を亡くして独りになってしまった瑞穂を引き取り、妹のように大切にしてくれた兄のような存在で、唯一の家族でもあった。


 なのに最近、大樹の態度はつれない。もちろん話しかければちゃんと聞いてくれるし、一緒にいるときは可愛がってくれるのだけど、それでもどこか上の空で、何か別のことを考えているようだった。自室に篭もる時間も回数も増え、顔を合わす機会も減った。今もそうだった。


「つまんないよなぁ。本当に、つまんないよ。もう!」


 手に触れたカーテンの端を苛立ち紛れに握り締めてから、瑞穂は立ち上がった。廊下を踏み越え、大樹の部屋の前で立ち止まる。もやもやした気持ちが我慢できず、今にも文句として口から溢れ出そうだった。だが扉をノックする直前に、少女は動きを止めた。声が聞こえたのだ。


 大樹の声だった。とても愉しげで、誰かと何かを話しているかのようだった。しかし、相手の声は聞こえない。その為か、会話というよりは独り言であるかのように、瑞穂には聞こえた。


「あの、大樹くん。何を――誰と話してるの?」

 部屋の外から、恐る恐る瑞穂は問い掛けた。


 声が止んだ。愕いたように凍りついたかのように、ぱったりと。考えていた以上に大樹の動揺が感じられ、瑞穂もまた愕いていた。頬の内側に溢れていた不満不服の口上は急速に萎えて、言葉の継ぎ穂すらも消え失せる。沈黙の中で扉が開き、大樹が焦ったような顔を覗かせた。


「ご、ごめん。盗み聞きするつもりじゃなかったの」

 瑞穂の口から、弁明の言葉がこぼれた。


「いや、いいんだ」

 大樹は狼狽えたように言い

「でも、そんなとこに立って、どうしたの?」


「だって最近、大樹くんの様子、変だったから。ずっと他の事を考えてるみたい。部屋に閉じ篭もってばっかりだし。どうしたのかなと思ったの。ねえ大樹くん。一体、何をしてるの?」


「何って、別に何も無いけど――」


 大樹は困ったような表情で呟く。そのとき瑞穂は、大樹が小さな書物を手にしていることに気付いた。ボロボロで古めかしい手帳サイズの書物。


「その本、何?」


 瑞穂が続けて問うと、大樹は、しまったと言わんばかりに顔を歪めた。瑞穂は身を乗り出す。扉の隙間から、メモや写真が、何かの資料が床に散らばっているのが見えた。


「何かを、調べてるの?」


 思わず呟いた瑞穂の肩に手をやり、大樹は諦めたように頷いていた。

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