儚い沼の虚空


「能力者の“能力”というのは、人によって多種多様です。と、さっき言いましたよね? この本はそれを、能力者の特殊な力が、どのようなものかを判別することができるんです。能力者がこれに近付くか手を翳すかすると、このように持っている能力の名が浮かび上がるから」


 確かに、書物には古代文字と思しき模様が浮かんでいる。手を引くと、模様はすうっと消え、元の白紙へ戻った。嘘ではないのだろう。ならば何故、彼女はこんなものを所持しているのか。


「宗谷さん」

 真剣な眼差しで宗谷を見据え、瑞穂は言う。

「あなたは“確かに存在しているが、物理的に観測不可能なものを認識する能力”を持っています。だから千早さんのような、亡くなった人の強い想い、つまり残留思念の姿を視たり声を聴いたりすることができる。そして――」


「あの“化け物”の姿も、視えてしまう」

 瑞穂の言葉に先回りするかのように、宗谷は呟いた。


「その通りです。あれは、あの化け物は――“儚い沼の虚空”と呼ばれる存在は――」


「“儚い沼の虚空”――? それが、あの化け物の名前」


 宗谷は息を呑んだ。その名を口にした瞬間、彼の脳裏を、忌まわしき黒い獣の姿が過ぎった。背後で蹲っていた千早の肩が、僅かに震える。


 瑞穂はその場に座り、バッグからもう一冊、書物を取りだした。比較的新しいシステム手帳。表紙には引っ掻いたような小さな傷がついている。彼女は手帳のページをめくり、白い指先で手帳に記されているのであろう文字をなぞった。醒めた視線を走らせ、そして抑揚無く呟く。


「操り人の翼、歪みの無に生やす。真実を辱める四肢。黄泉を咥える歯牙。その虚はなにものでもなく。意味もなく。自我もなく。形もなく。空ゆえに飢え、成れの果ての蛇を這わせ蠢かせ、声ではない呻きと共に。儚い沼の虚空は喰らう――」


 宗谷は身を乗り出し、手帳を覗き込んだ。角張った几帳面な文字が、みっしり書き込まれている。半分ほどは宗谷にも読める現代の文字で、残りの半分が模様のような古代文字だった。


 宗谷の視線に気付いたのか、瑞穂は手にしていた手帳を傾けて、彼へと見せた。


「この手帳に古代文字の研究結果が、まとめられているんですよ。これで偽典に記されている文字を解読するんです。といっても完璧に解読できているわけではありませんが」


「ということは、さっきの意味不明な呟きが、その“偽典”に書いてあると?」


「そうです。今の言葉は、“偽典”における“儚い沼の虚空”についての記述の一部」


 宗谷は思わず首を傾げた。

「でもそれ、何かの暗号のようにしか聞こえないんだけど」


「暗号というより、勿体ぶっているんです。だからとても回りくどい。私もこの手帳が遺っていなかったら、この書物に書かれていることの意味を理解することはできなかったでしょう」


 一呼吸おき、瑞穂は再び手帳へと視線を落とす。幼く可愛らしげな白い顔。だが、眼だけは違う色を帯びていた。広がりきった蒼の瞳孔。変貌している。殺気に澱んだ、あの鬼の瞳へと。


「あの化け物“儚い沼の虚空”は、生き物ではありません。それどころか、意志も自我も持たない、実体すらも持っていない存在。元々は空間に稀に発生する歪みなんです。例えるなら旋風のようなもの。風が止めば、旋風もまた消える。その歪みも、放っておけば消えるはずのものでした。


 歪みは形を持ちません。もちろん実体も持たない。歪みはあくまで”歪みという状態”に過ぎないから。でも、その歪みは形を与えられてしまった。醜悪な獣の形を。蛇に似た無数の触手を。しかし実体は得られなかった。その代わり、空虚な己を満たそうとする本能を宿した」


「あの化け物の正体が、歪み? 空間の歪み――」

 そこまで呟いて、宗谷は気付いた。

「いま、“形を与えられた”って言ったよね。つまり、誰かが与えた。誰が? どうやって」


 瑞穂は宗谷を見た。思わず目が合う。睨むような彼女の冷たい視線に、宗谷は息を呑んだ。


「偽典の記述によれば――それもまた、能力者によるもの」


 少女は宗谷を見てはいなかった。何も見てはいなかった。その視線は宗谷に向けられているようで、しかし実際には、遥か数十メートル先を見据えているかのように茫洋としていた。


「儚い沼の虚空――あの化け物は、“歪みに形を与え、ある程度操ることのできる能力”を持つ者、即ち“操り人”に造られた、いわば傀儡のようなもの。所詮は歪みに過ぎず、実体を持たぬ故、人間には見えない。勿論、私にも見えない。見えるのは宗谷さんのような見えないものが視える能力者か、あれを造りだした操り人だけ。だから操り人の心の持ちようで、能力の使い方次第で、あれは非常に危険な存在になりうる。人々を喰らう殺戮者、見えない暗殺者に。いえ――もうなっている」


 彼は思い起こす。桜花の脚を切り裂き、瑞穂の肩を抉り、名も知らぬ少女の霊を喰らい、そして千早をも喰らおうとした、あの獣。残虐で容赦無き捕食者。それは紛う事なき殺戮者の姿。

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