“能力者”


 動揺と安堵の狭間で、宗谷は動けないでいた。どれだけの時間が経ったのかすらも、よく解らない。千早の空虚な身体を抱きながら、呆然とその場に座り込むことしかできなかった。


「気配が消えた――また取り逃がした。今度こそ仕留めたと、始末できたと思ったのに」


 物騒な内容とは不釣り合いな、幼げな声が聞こえる。見ると、倒れていた瑞穂がゆっくりと立ち上がっていた。肩から滲み出て、全身を濡らしつつある鮮血を気にも留めずに呟いている。


「ごめんなさい、宗谷さん。こんなことに巻き込んでしまって」

 

 横を向き宗谷を見据え、瑞穂は静かに言う。こちらの方が顔を顰めてしまう程に、少女の身体は傷つき血に染まり痛々しい。


「君は、一体――」

 言葉に詰まる。様々な思考が混ざり、冷静に訊ねることができない。


 瑞穂は答えなかった。哀しげに俯き、ただ首を横に振るだけ。問い掛けに答えたくないと言うよりは、今はまだ、何も話したくないとでも言いたげな様子だった。宗谷は押し黙った。


「ここに――いるの?」


 不意に胸元から声が聞こえた。宗谷の胸に抱かれた千早が、動揺しきった表情で呟いていた。


「響くん、響くんだよね。ここに、いるんだよね。どうして、響くんがここに――」


 譫言のように、千早はかつて語った友達の名を呟き続けている。宗谷は震える彼女の肩を掴もうとし、しかしその指先は半透明な肩を擦り抜けた。彼は思わず、問いかけていた。


「響くんって、君の友達のことだよね。どうして、その友達の名を呼んで――」


「さっきの変な音が」

 揺れる瞳を宗谷へ向け、千早は切羽詰まった声で答えた。

「思い出したんです。さっきの雷みたいな音が、響くんが“力”を使うときの音に似ているってことに」


「だから君は、その響くんを探していた」

 当惑し、棒読みのように宗谷は呟いた。あり得ない想像が脳裏に浮かび、口からこぼれる。千早の言うことが紛う事なき事実なら、それはつまり。


「あの化け物は、千早ちゃんの友達、その響くんって子の“力”によるもの――?」


「もしかして、響くんは怒っているのかもしれない。あたしが“約束”を破ったから。それは、赦されないことだから。だから、あの“力”で、あたしのことを襲ったんじゃ――」


 いや違う、と宗谷は呟く。友達なら、こんなことしない。果たせなかった約束が、とても大事なことだとしても。彼女が涙ながらに語った友情が、そう簡単に歪むとは思いたくなかった。


「あの、宗谷さん。お取込み中のところ、申し訳ないんですけど」


 素っ気ない口調で、瑞穂が口を挟んだ。傷付いた肩を押さえつつ、しかし涼しい顔をして。


「とにかく、ここを離れましょう。まだ安全が確保されたわけではないんです。それに――」


 瑞穂は血塗れな自分の掌、抉れた地面や壊れたベンチ、そして周囲に立ち竦んでいる人々、驚愕と動揺に見開かれた瞳を訝しげにこちらへ向けている何人かへと、順番に視線を巡らせた。


「こんな状態じゃ、目立ちすぎますから」


   ●●


 辺りは暗くなりかけていた。殺風景な瑞穂の部屋に佇み、窓の外に広がる夕空を、沈んだ橙と滲む黒を見つめ、宗谷は経過した時の長さを思い知った。人目を避ける為、敢えて遠回りで時間の掛かるルートを選んだのだから当然のこと。だが張り詰めた緊張に支配された今の宗谷は、時間の感覚すら麻痺していた。今までの事が、まるで一瞬の出来事のように感じられた。


 背後に蹲る千早は、黙り込んでいた。とても怖ろしい目にあって、しかもそれが友達によるものではないかと考えている彼女の表情は虚ろ。思い詰めたように、じっと床を見つめている。


 足音がした。顔を上げて宗谷が見たのは、着替えを小脇に抱えて立っている瑞穂の姿。酷く顔色が悪い。青白く疲労の色濃い少女の表情は、怪我人というよりも病人のそれに近かった。


「その怪我、大丈夫なの?」


 宗谷が訊くと、瑞穂はいかにも大儀そうに溜息をつき、頷いた。


「ええ、痛みはないです。それに、もうお気づきのことと思いますが――」


 少女は、遊園地を出てから初めて口を開いた。そして徐に、血塗れでボロボロのパーカーとシャツを脱ぎ捨てた。


 少女の白く細い上半身が露わになり、同時に宗谷は言葉を失った。ある筈の傷が、無かったから。幼い体躯の肩や腹部に刻まれている筈の傷痕が、切り取ったかのように消えていたから。


「私も、“能力者”なんですよ。だから、ほら、もう傷が無くなっていますよね」


 少女の言葉に頷きながら、宗谷は訊いた。

「君が、ええと――“能力者”って?」


「普通の人には無い、特殊な力を持った人のこと。つまり私や宗谷さんのことですよ。遙か昔には、そう呼ばれていたらしいです。尤も厳密に言えば、宗谷さんと私の能力の種類は異なります。でも、その根源となるものは同じ」


 少女は着替えながら、何かの引用のように諳んじた。


「それは人に非ず、白き御使の欠片を宿し、偽りの翼を広げし“能力者”である」と。


「ということなら、君は一体、何の能力を――」


 息を呑み、宗谷は少女の眼を見つめた。


「残念ですが“能力者”は、自分の能力について他の人間に話したり、伝えたりすることはできないようになっているんです。理由や理屈はよく解らないんですけど、思考にロックが掛かったようになってしまうから。そういうの宗谷さんにも、心当たりありませんか?」


「それは確かにある。本能が拒むような感じは。ただ僕が訊きたいのは、それだけじゃない」


 宗谷の言葉の意味を理解したのか、瑞穂は視線を逸らした。宗谷は構わずに続ける。


「さっきの騒ぎで、やっと確信が持てた、と思う。君は知っていたんだね。僕がその“能力者”ってものであることを。千早ちゃんと一緒に暮らしていることを。化け物に襲われて、あれを怖れていたことも。全部、知っている。いや知っていたから、僕に近付いてきたんだ」


「そうです。引っ越してきたばかりの隣人を装って」

 ばつが悪そうに、瑞穂はぽそりと呟いた。


「君は、僕を監視していたんだ」

 知らず知らずのうちに、詰問するような口調になってしまう。


「ええ――まずは、謝ります。本当に、すみませんでした。あなたを騙していて。“能力者”や、あの“化け物”について知っているのに、何も教えずにいて。そのせいで、あなたや千早さんを、みすみす危険に晒してしまって。ああ、それと、勝手に盗聴器を仕掛けてしまって」


「盗聴器?」

 思わず声が裏返る。瑞穂は申し訳なさそうに、只でさえ小さな身体を縮こませた。


「気付きませんでした? 最初、ご挨拶に伺ったときのお土産。箱の裏に盗聴器を仕掛けていたんです。だから私は、姿を視たり声を聴いたりできないのに千早さんの存在を知っている」


「部屋の中での、千早ちゃんとの“独り言”を盗み聞きされてたってことか。でも――」


 訝しげに眉を上げ、宗谷は瑞穂の幼げな顔を眺めた。


「君は一体、何の為に、こんなことを? あの化け物と何か関係があるんだろう?」


 瑞穂は僅かに頷いてみせる。足元に転がっていたバッグの中から、手帳ほどの大きさの古めかしい書物を取り出すと、彼女は何も書かれていない白紙のページを開き、宗谷へ差し出した。


「宗谷さん、ここに手を翳してみてください」


 言われるままに、宗谷は開かれた書物の上へ手を翳す。途端に、幾重もの模様が白紙のページに浮かび上がった。彼は眼を見張った。意味は解らなかったが、古代の文字のように見えた。


「――彼等は、見てはいるが視えてはいない。故に彼等は、私と違い、決して悟りはしない」


 再び何かの引用のように諳んじ、瑞穂は独り言を呟く。


「うん良かった。思った通りです」


「良かった、って。どういう意味さ。それに、そのボロボロの本は、何なの?」


「この本は“偽典”と呼ばれるものです。とある古代の“文明”の遺跡から発見された書物、いわゆる“魔導書”的なものですよ。尤もこれ自体には何の力もありませんし、史料的価値も認められていません。ご覧の通り、半分以上が白紙のページですし」


「その、あからさまに胡散臭い本が、どうしたの。それに偽典って、偽物に何の意味が?」


「偽典といっても偽物というわけではありませんよ。偽典というのは、単に正典に加えられなかった文書というだけのこと。異端であったり、それこそ胡散臭かったりといった理由でね。この本自体は偽物なんかではありません。れっきとした本物ですよ、ある意味でね」


「ある意味で?」


 訊きながら、宗谷は手で額を押さえる。能力者、古代文明、魔導書、偽典。思いもよらない単語が次から次へと瑞穂の口から飛び出し、彼の頭は軽く混乱しかけていた。

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