喰と斬の死闘


 地響きの如き大きな音が宗谷の耳に響いた。獣の巨体が広場に墜ち、その全身が地面を叩く轟音。だが、広場を歩く人々には、寄り添うように蹲っている千早にも、身構えたまま上空へ鋭い視線を向け、獣の気配を探っているのだろう瑞穂にすら、その地響きは聞こえていないようだった。誰一人として愕かず、振り返ることもない。何事も無かったかのような奇妙な沈黙。


 地響きの中に佇む一瞬の沈黙は、獣によって即座に破られた。ゆっくりと巨体を起こし、四つん這いに身構えて、またも獣は咆哮する。痛み苦しみを堪えているからか、傷つけられたことによる怒りの発露か、その叫びは今まで聞いたどの叫びよりも大きく激しく、何よりも不快極まりない雑音に、耳障りな倍音にまみれていた。地響きの余波は、完全に掻き消された。


 その瞬間、瑞穂は咄嗟に獣へと振り返っていた。額に汗を浮かべ、焦りの張り付いた表情で。と同時に広場を歩いていた人々もまた、一斉に獣の方へ視線を動かす。人々は獣のいる辺りを凝視して、だがやはり見えていないのだろう、釈然としない様子で小首を傾げたりしている。


 どういうことだ、これは。宗谷が考えていると、胸元で蹲っていた千早が、小さく呟いた。


「この変な音、なんだろう。どこかで――聞いたことがある」


 そこで宗谷は気付いた。聞こえているのだ、と。獣の姿を視ることのできない、獣の発する音を聴くことのできない、普通のヒトにも聞こえているのだ。“あの禍々しい咆哮だけ”は。


 獣の全身が波打つのが見えた。黒々とした醜い皺、その隙間から生える無数の触手。それらは瞬く間に獣の全身を覆った。犇めく触手の数本が、眼にも留まらぬ勢いで放たれる。振り返った直後で無防備な瑞穂の身体を目掛け、明確な殺意を持って一直線に伸びていく。


「瑞穂ちゃん、危ない!」

 触手の先端を目で追うよりも先に、素早く宗谷は口走っていた。


 宗谷の声を聞き、はっと我に返ったかのように瑞穂は身構える。触手の鋭い先端は、少女の頭蓋を貫かんと、あと数十センチという所まで迫ってきていた。


 猫の如くしなやかに瑞穂は横へと跳んだ。目の前まで接近した触手を寸前のところで避ける。だが完全に避けることができたのは最初の一波だけだった。間もなく血飛沫が舞った。第二波、続けて放たれた触手が、瑞穂の肩を掠めていた。触手の先端は、鋭利な刃物として彼女の水色のパーカーを引き裂き、研ぎ澄まされた牙として少女の白く透き通った肌を喰い千切っていた。


 切り裂かれたパーカーの袖が草むらに落ち、瑞穂のか細い腕が露わになった。白く柔らかそうな二の腕は、肩の傷から迸る鮮血に濡れている。彼女の衣服に、瞬く間に紅い滲みが広がる。


 しかし瑞穂は立っている。倒れてなどいない。僅かに朱の差した頬に生々しい血糊がこびり付いていても、子供っぽいツーテールの先端から鮮血が滴っていようとも、少女は立っていた。


 あの鬼の眼をしている。傷ついた肩を庇うよう斜に構え、手にした小刀を静かに持ち上げながら、痛みを感じさせぬ、それ以上に怨嵯の宿った面持ちで瑞穂は獣の方を睨み付けていた。


 畳み掛けるように、さらなる無数の触手が瑞穂を目掛けて飛んでいく。我先にと、獲物を一刻も早く喰らわんとする飢えた肉食獣のように。犇めく触手の内の幾つかは無軌道に、目標を逸れて地面を抉った。砕けたアスファルトが渦巻き、土埃となって辺り一面に立ちこめる。


 漂う土埃を吹き飛ばし、触手は瑞穂の身体を貫いた、かに見えた。しかし触手が貫いた場所には、既に何も無かった。触手は、ただ虚空を突っ切っただけだった。瑞穂の姿はいつの間にか土埃に紛れて消えていた。触手は獲物を完全に見失ってしまったようで、逡巡したようにその場で揺れている。だが次の瞬間、触手は糸を切られた操り人形のように地面へと突っ伏した。


 根元が断ち切られていた。薄れてきた土埃の奥から蒼い閃光が、眩い斬撃が飛び、触手の根源を、獣の横っ腹を掻き斬っていた。意志の伝達を断ち切られたと思しき触手は、死に際の蛇のようにのたうちながら、黒い霧のように溶けて散り散りとなり、消滅していく。


 強風が吹き荒れ、首筋を掠める。ただの風とは違う。瑞穂の放った蒼の斬撃による衝撃波だろう、と宗谷は思った。この風の冷たさ鋭さは、少女の眼に宿るそれと、どこか似ていたから。


 風が土埃を掻き消し、視界が開けた。宗谷は土煙に消えた瑞穂の姿を探す。青い髪、小さな体躯、獣のすぐ近くにそれを認めた彼は、認識が追いつくと同時に愕き、短い呻きを漏らした。


 瑞穂は、獣の懐に潜り込んでいた。黒く醜い皺の刻まれた腹の真下、少女は深く屈み込み、逆手で握り締めた小刀を今にも振り上げようとしている。丁度、獣からは死角になっている位置だった。獣は黄色い眼をあちこちへ動かすも、まだ瑞穂の姿を見つけてはいないようだった。


 小刀が、獣の腹に突き立てられた。続いて、蒼い閃光が瞬く。獣の腹がばっくりと裂け、重油に似た、どす黒く高粘性の液体が、裂けた傷口から滝のように溢れて噴き出した。


 悲鳴に近い獣の咆哮が轟く。反射的に触手が揺れた。己が腹の下にいる敵を認識し、それを排除せんと動く。触手は獲物を見つけた小動物の群れの如く、無秩序に瑞穂へと押し寄せた。


 触手の気配を感じたのか、瑞穂は避けようと身体を動かす。だが遅かった。迫りくる触手の一つが瑞穂の身体を捉え、か細い腹部を殴打した。少女は宙を舞い、背中から草むらに墜ちた。


 低い唸り声を上げつつ、獣は巨体を起こした。黄色い眼は忌々しげに瑞穂を睨み、牙は噛み締められ、今にも己を傷つけた敵へ逆襲しようとしているかのように、宗谷の目には映った。


 しかし、獣は憎々しげに瑞穂を見つめ続けるだけで、無防備に倒れている少女へ襲いかかろうとはしなかった。手負いの状態で無闇に反撃するべきでないと判断しているのか、未だ瑞穂を警戒しているのか。その間にも、腹に刻まれた二つの傷から止めどなく体液が流れ出ている。


 やがて獣は渋々といった感じで跳び上がり、視界から外れた。その場から立ち去ったのだ。

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