一閃
怖ろしい力で締め付けられているのだろう。千早の顔は苦しげに歪み、開かれた口から涎が溢れ、痙攣した舌が覗いている。涙の滲んだ瞳が、縋るように宗谷へ向けられていた。彼女には触手が、その根源である巨獣すら見えていないのだ。わけも解らず、全身を襲う痛みに悲痛な呻きを漏らしている。それでも尚、千早は宗谷を、唯一の救いを、ただ一心に見つめている。
その様子に、宗谷は既視感を覚えた。数日前、獣に喰われた女の子の残留思念。その哀れな末路を目の前にしながら、何もできなかった自分への無力感。それらが背筋を冷たく駆け上る。
咄嗟に宗谷はベンチを乗り越え、獣へと一歩踏み込んだ。そして叫んだ。
「やめろ、その子を食べるな!」
獣の頭部が割れた。口が開いたのだ。首の辺りまで裂けた口の内側には、血塗れの牙がびっしりと並んでいる。その上方に、触手に絡み取られた千早が吊し上げられていた。今にも、裂けた口と無数の牙が千早を覆い隠し、その小さな身体を噛み砕こうと、喰らおうとしている。
「た、たすけて」
触手の隙間から紅い霧のようなものが迸り、それに混じって千早の泣き声が聞こえた。
「痛い、痛いの。身体が、苦しいよ。たすけて、宗谷さん。い、痛いよ――」
千早の泣き声を聞くと同時に、宗谷の中にある理性が弾け飛んだ。「その子を離せ!」と宗谷は叫んでいた。勢い良く駆け出し、獣へと、その触手の根本の辺りを目がけて飛び掛かった。
だが宗谷の身体は、獣に触れずに“擦り抜けた”。身体は地面に墜ち、濛々と土埃が舞った。
やはり駄目なのか。自分には“視る”ことしかできないのか。悔しげに地面に爪を立て、彼は掌を震わせた。眼前の惨劇を眺めるだけで、抗うことは疎か、触れることすらできないのか。
宗谷は辺りに舞う土埃を振り払い身を起こした。見上げた彼の視界に映るのは、泣き喚く千早の哀れな姿、それを今まさに飲み込もうと上体を持ち上げる獣の姿。もはや、何もできない。
「やめろ、やめてくれ――その子は、食べないでくれ。その子は、もう殺さないで」
無意識のうちに彼は呟いていた。懇願するように、震える声で。絶望に打ちひしがれた声で。
獲物の周りを徘徊していた触手が、一斉に揺れる。触手からはみ出た裸足、痙攣する指先が獣の口蓋に触れた。そこで千早は再び悲鳴を上げ、足をばたつかせた。自分が喰われつつあることを悟ったのだろうか。だがその泣き声は、彼の耳にのみ虚しく響くだけ。少女の身体は、全身に絡みついた触手ごと、獣の口腔へと、底無しの闇へと押し込まれ、飲み込まれていく。
「化け物の、首根っこの辺りを注視してください。今すぐに!」
誰かの声が宗谷の耳に刺さった。冷たく静かな、しかし有無を言わせぬ芯の通った声。自分の弱々しい呟きも、千早の涙声も、その一瞬だけ、彼の意識の中から掻き消された。突然飛んできた声に突き動かされるように、彼は獣の首筋を見やった。黒々とし、グロテスクな皺に覆われた巨獣の喉元。獲物を一気に飲み込んでしまおうと不気味な律動を繰り返している。
鋭い何かが、背後から彼の頬を掠めた。空を切る音が鼓膜に張り付く。同時に、蒼の閃光が眼前で瞬いた。レーザーにも似たその一閃は、獣の首筋を這うように横切っていた。
その刹那、巨獣の首筋が吹き飛んだ。閃光の通過した部位に、日本刀で薙いだような裂傷が生じていた。縮れた肉片が飛散し、鮮血と思しき赤黒い霧が傷痕から勢い良く噴き出し始める。
狂ったような咆哮が轟いた。獣の黒い体表が激しく波打ち、触手が慌ただしくもチグハグな動きを見せる。痛みに我を忘れているようで、獣は呻き吼え続けながら、その場に蹲り、身を捩るようにして口から何かを吐き戻した。彼はそれを目で追った。紛れもない、羽衣千早の半透明な身体。獣から数メートル離れた場所に吐き出され、千早は草むらの上に横たわっていた。
耳を劈く大音響を堪えつつ、宗谷は千早に駆け寄った。呼び掛けると、千早はゆっくり目を開く。無事のようだった。茫洋と泳ぐ女の子の瞳が、宗谷の姿を捉えた途端に涙で溢れた。
「そ、宗谷さん――今の、一体、何なんですか? すごく痛くて、怖かった。怖かったよ」
千早は泣きながら半身を起こし、抱きついてきた。宗谷も彼女を抱きかかえようとした。尤も、互いに触れることはできない。だが空気を抱くような感触の中に、仄かな暖かみを感じた。
またも咆哮が響く。宗谷は我に返り、背後で身悶えている獣へと振り返った。獣は瞳を開いていた。理性の欠片も感じられぬ、本能を剥き出しにした黄色い瞳。だがその瞳は、以前と少し異なっていた。自分を傷つけた者に対する、脊髄反射的な憎しみの色に染まっていた。
宗谷は千早を庇うように身構え、獣の怨嵯の瞳が捉えている先を見た。そして絶句した。
青い髪の小さな女の子が、塚本瑞穂が、獣と対峙していた。彼女はその手に、小刀のようなものを握り締めていた。小刀の先端は僅かに光を帯びている。先程目の当たりにした、蒼い光。
瑞穂の瞳は、あの鬼の眼そのものだった。突き刺すような、殺意と狂気の入り混じった澱んだ瞳だった。獣に肉薄されたとき以上の戦慄が、宗谷の背筋を這うように駆け上がる。
「化け物は、どこですか」
微動だにせず瑞穂は訊いた。“化け物の首筋を見ろ”という叫びと同じ、あの凛とした声で。
「真正面だ」
宗谷は反射的に答えていた。そして、ふと思った。獣のいる位置を訊いたということはつまり、彼女にも、やはり獣や触手の姿は見えていないということなのだろうか。
宗谷が声を上げた直後、獣は体勢を立て直し、跳んだ。威嚇し、威圧するかのように空中で四肢を広げ、獣は吼えていた。雷鳴のような大きな音が響き、辺りの木々が小刻みに震える。
「そっちか!」
即座に瑞穂は上空を、獣の跳躍した先を見上げた。咆哮を聞き、獣の位置を再認識したのか。彼女は手にした小刀を空へ掲げ、横一線に薙いだ。蒼い閃光が小刀から迸り、獣へと放たれる。
一閃が、獣の脚を掠めた。途端にその部位が、獣の強靱な脹ら脛が裂けた。血飛沫が噴き出し、霧状となって空を赤黒く染める。獣の身体が感電でもしたかのように激しく痙攣し、やがてバランスを崩した。くぐもった呻きと共に、黒い巨体は数十メートル離れた広場へと墜ちた。
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