強襲


 突然に、瑞穂は振り返った。無邪気な笑みを浮かべている。だがその表情すらも、もはや彼には作り物にしか見えなかった。この子は、こんな所に自分を誘って、楽しんでいる振りをして、何を考えているのだろう。その疑念ばかりが、頭の中をぐるぐると回っている。


「どうしたんです、宗谷さん?」


 声を掛けられ、宗谷はちらりと後ろを見やった。背後では千早が、初めての遊園地だからか、物珍しげに辺りを見回しながら、しかし不思議そうに、無言で歩く宗谷の様子を伺っていた。


「何でも無いよ」

 と、囁きにも近い小さな声で応える。瑞穂には千早の声は聞こえない筈だが、宗谷の声は当然ながら聞こえてしまう。その為、彼は千早に話しかける際には、瑞穂に聞こえないよう小さな声で喋る必要があった。


「それよりも、どうだい? 遊園地って、こういうところなんだけど」


「すごい、ところですね」

 千早は、困惑と興奮の入り混じった表情を浮かべて言った。

「あたし、こういう場所があるなんて、全然知りませんでしたよ」


 しかし彼女のその呟きが、僅かに哀しみを帯びていることに、宗谷は気付いた。色の無い瞳で、千早は見つめていたのだ。時折見かける親子連れの、そこにいる小さな子供達の、親に甘え、我が侭を言い、叱られ、泣き、宥められる、様々なやり取りを。


 もしかして自分は余計なことを、残酷なことをしているのではと、宗谷は不安に思った。既に死んでしまっている彼女を、こんな場所に連れてきて、こんな光景を見せて、何になるというのだろう。命も過去も、幼いときの楽しい記憶すら、彼女は取り戻すことができないのに。


「そんな顔しないでくださいよ」

 千早は、不意に翳った宗谷の表情に、その意味に気付いたのか、妙に明るい声を出した。取って置きのような満面の笑みを浮かべ、彼の耳元に頬を寄せる。


「今は、とても楽しいです。宗谷さんと一緒に変な機械に乗ったり、動物を見たりするのは」


 千早の言葉に、嘘は無いのだろう。実際、彼女は本当に楽しそうにしていて、瑞穂の演技を思わせるそれと根本的に違うのがわかる。それでも宗谷は感じるのだ。彼女の言葉の端々から滲み出る、切なさのようなものを。彼女自身もその事に気付いたのだろうか、声を落とす。


「確かに、友達と――若葉ちゃんや響くんと一緒に、こういう楽しい場所に来て、みんな一緒の思い出をつくることができなかったのは残念です。でも――」


 一呼吸おき、千早は自分に言い聞かせるかのように続けた。


「まだ、そういう時間を取り戻せないわけじゃない。あたしは死んでいるのに、今こうして楽しい時間を過ごさせて貰ってる。だから、若葉ちゃんや響くんと再会して、別れの時まで時計の針を巻き戻すこともできると信じてます。その望みは贅沢かもしれません。我が侭なのかもしれません。だけど、あたしはそのためだけに存在しているんですから」


「千早ちゃんなら、大丈夫だよ。きっと叶えられる」

 彼女の言葉に元気付けられ、彼は言った。


「ええ、もちろんです。あっ、宗谷さん」

 千早は何かに気付くと、いきなり前方を指差した。

「次は、あれに乗りたいんですけど」

 と、せがむような視線を宗谷へと送る。


 宗谷は前へ目をやった。彼女は、すこし先にある亀のような形の遊具を指差していた。そう、それです、と背後で千早は意気込んだように頷いているが、その遊具はどう見ても、千早よりも小さな子供向けの遊具だった。間違っても、宗谷が自ら乗ろうとするような代物ではない。


 それでも構わず、宗谷は前を歩いている瑞穂へ言った。

「次は、あれに乗ろうか」


「えっ、どれです?」


 瑞穂は聞き返してきた。少し先にある幼児向けの遊具のことなど、眼中にすら無いようだった。宗谷はゆっくりと、千早と同じ方向を指差す。あぁ、と瑞穂は吐息とも溜息ともつかぬ声を漏らす。どうやら通じたようで、彼女は訝しさを抑えた神妙な面持ちで、振り返っていた。本当に、あれに乗るんですか、と念を押す。宗谷は、そうだよと答えた。


 何かを言いかけ、急に瑞穂は口を噤んだ。目を見開き、納得したように口許を緩め、身を翻す。

「そうですね、乗りましょう」

 と歩き出す少女の背中を追いかけながら、宗谷は彼女の口振りの不自然さに眼を細めた。あの子は急に何を呑み込み、何に納得したのだろうか、と。


 ●●


 千早に言われるまま幾つかの遊具を乗り継ぎ、気付いた時には正午を少し過ぎていた。昼食にしようと、宗谷達は近くのベンチに腰掛ける。瑞穂はリュックから手作りの弁当をひろげた。


「人のお弁当を作るなんて久しぶりですから、上手くできてるかどうか、わからないですよ」


 照れたように頭を掻いて瑞穂は言った。久しぶりと言うことは、以前に誰かのために弁当を作ったことがあるのだろう。今はもういないという家族のためだろうか。宗谷は、三つの弁当箱の中身を、几帳面かつ美しく盛り付けられたおかずを見つめ、無意識の内に考え込んでいた。


「なんだか、美味しそうですね」

 千早が顔を覗かせ、弁当箱の中身を羨ましげに見つめた。


「そうだね。千早ちゃんに食べさせてあげられないのが、残念だけど」


 思わず振り返り、宗谷は口走っていた。途端、しまったと息を呑む。考え込んでいて気持ちが緩んでいた。彼は瑞穂の眼前で、千早の方へ顔を向け、あまつさえ話しかけてしまったのだ。


 慌てて瑞穂へ向き直る。彼女は宗谷を見ていた。不審げな瞳が、上目遣いに彼を捉えている。


「宗谷さん。一体、誰に話しかけて――?」


 そこで瑞穂の言葉は途切れた。同時に、彼女の手元から弁当箱が滑り落ちた。プラスチック製のそれはアスファルトの地面に落ち、乾いた音を響かせる。彼は思わず、転げ落ちた弁当箱へ視線を移した。弁当箱の中身は、彼女の足元で無惨に散らばっていた。


 瑞穂が何かを呟いた。小さく不明瞭な声。聞き取れず、彼は顔を上げて瑞穂を見つめた。


 少女は宗谷を見ていなかった。幼く白い顔から一切の感情が拭ったように消えていた。だがその中で、眼だけは底なしの憎悪に染まっている。殺意に満ちた、あの鬼の瞳に違いなかった。


 彼は息を呑み、眼を見張った。その時、頭の芯を揺さぶられたような目眩を感じた。背後から凄まじい爆音が轟いたのだ。何度も聞いたことのある、不快で忌まわしい、ざらついた音。


 宗谷は気付いた。耳障りな倍音の中に、少女の悲鳴が混じっていることに。彼は錯乱しながらも、音のする方向へ振り返った。背後に寄り添っている筈の千早の姿が、そこには無かった。


 見えるのは、真っ黒な触手。絡み合う蔓のように無数の触手が犇めき、彼の視界を塞いでいた。宗谷は咄嗟に立ち上がり、触手を掻き分け、眼を凝らした。見上げた先には、あの黒い巨獣と、その全身から伸びた触手に身体を絡み取られ、締め上げられている千早の姿があった。

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