嘘と、演技と


「あ、あの――昨日は、すみませんでした。すごく、生意気なこと言ってしまって」


 翌朝、廊下に出た宗谷が最初に聞いたのは、躊躇いがちな少女の声だった。振り返ると、塚本瑞穂がドアの隙間から顔を覗かせているのが見えた。その表情は、こっぴどく叱られた幼子のようにもの哀しげで、しかしそうやって、こちらの機嫌を伺っているようでもあった。


 宗谷は息が詰まった。否が応でもこれまでのことが、昨夜ことが思い出された。負の感情に満ちた異様な、鬼の如き少女の形相が脳裏を掠める。だが、今の瑞穂からは危険な何かは感じられない。どこにでもいる小柄で可愛らしい女の子でしかない。まるで別人のようだった。


 子供の仮面を被った鬼なのか、鬼の皮を被った少女なのか。次々と入れ替わる瑞穂の印象に、宗谷は居心地の悪さを覚えた。この子の本当の、本来の表情は、一体どれなのだろうか、と。


「別に、瑞穂ちゃんが謝る事じゃないよ。僕も昨日は詰問みたいな事をして、悪かったね」


 努めて平静さを装う。この少女には、隙を見せてはいけないような気がしてならなかった。


「そうですか――」


 瑞穂は目線を落とした。強張っていた頬が緩む。彼女なりの安堵の表れなのだろうか。暫くそのまま沈黙した後、少女は意を決したように顔を上げ、口を開いた。


「あの、これ、お詫びというわけではないんですけと――」


 か細い声で瑞穂は言うと、手にしていた封筒から紙切れを取りだし、宗谷へと差し出した。


 彼女が手にしていたのは近所の遊園地のチケットだった。瓢箪に似た体型をしたマスコットのイラストと観覧車の写真、その上に「臨港ファミリーランド前売入場券」と印刷されている。


「これ、遊園地の入場券だよね」

 チケット指さして、宗谷は訊いた。


「はい。今度の日曜日、友達と一緒に行こうと思ってたんです。だから事前に入場券を買ってたんですけど、その友達、急用ができたらしくて、行けなくなっちゃったんですよ」


 言い訳のように一気に話すと、彼女は一瞬黙り、そして上目遣いに宗谷を見た。


「宗谷さん。もし、ご迷惑じゃなかったら、一緒に行っていただけませんか?」


「僕が――? 僕で、いいの?」

 戸惑うように少女を見据え、宗谷は聞いた。


「他の友達も、もうスケジュール詰まってるそうです。それに――」

 少女は縋るような目つきで宗谷を見つめた。落ち着き無く、瞳が揺れている。

「もう、あまり時間が無いんですよ」


 チケットの有効期限のことを言っているのだろうか。宗谷は改めて、少女の幼く色白の顔を見つめた。この子は何を考えて、何のために自分を遊園地に誘おうとしているのだろうか。


 宗谷には、彼女が何らかの意図を持って自分に接触してきているように思えてならなかった。


 昨日の夜に見てしまった瑞穂の横顔が、否が応にも思い出された。あれ程の狂気や殺意を抱きつつ、普段は何事もなく子供の笑みを浮かべ、他愛の無いお喋りをする。それは、とても普通だとは思えなかった。この娘には何かがある。そしてその得体の知れない何かを、鬼のような形相とともにひた隠しにしている。もはや思い過ごし、考えすぎだとは思えなかった。


 だが、小さな子供の誘いを理由無く断るのは抵抗があった。それに彼女が意図して自分に近付いているのなら、断った場合、彼女がどういう行動に出るか解らない。それも不気味だった。


「僕で良ければ、構わないよ」


 宗谷は答えた。考えた末に、断るのは得策でないと判断した。

 その時、ふと宗谷は思いついた。それなら、あの子も一緒に連れていこう。テレビに映った遊園地を不思議そうに眺める千早の様子が瞼の裏に浮かんだ。遊園地に行ったことも、見たことも無く、その存在すら知らなかったなんて、あまりにも可哀相だったから。


 返事を聞き、瑞穂は肩の荷が下りたかのような安堵の笑みを浮かべた。頻りに礼を言い、自室へと帰っていく少女の後ろ姿を見つめ、宗谷は胸の奥で不安が燻るのを感じた。


 どうにもタイミングが良すぎるのではないか。千早と遊園地の話をした矢先に、こんな都合の良い話があるだろうか。それに――あの子は、何をあんなに焦っていたのだろう。


 ●●


 日曜日だというのに遊園地、臨港ファミリーランドは閑散としていた。


 場内を瑞穂と並んで歩きながら、宗谷は呆れたように辺りを見回した。時折、思い出したかのように親子連れが視界に入る程度で、人の姿は殆ど見られない。アトラクションと横文字で表現するのも憚られる旧式の遊具は、何十人かを収容できるであろう座席に、僅か数人を乗せているだけ。やっと動き出したかと思えば、至る所が軋み、悲鳴のような金属音を響かせる。


「こういう静かな遊園地の方が、落ち着きますよね。ここにして、良かったですよ」


 瑞穂は愉しげな口調で言った。ゆっくり歩きながら、横目でじっと象の檻を眺めている。


「そう、かな」

 曖昧に応え、宗谷は訝しげに眉を潜めた。


 こんな寂れた遊園地が良いとは、本気なのだろうかと思ったその時、彼は気付いた。少女が熱心に見つめる象の檻の中に、何も居ないことに。象は体調が優れないのか、それとも既に死んでいるのかは解らない。だが、彼女の視線の先に、見るべきものは何も無いことに変わりはない。彼女は、何を見ているのか。


 背筋に悪寒が走った。少女の挙動を仔細に観察し、彼は息を呑む。後ろから僅かに覗いた少女の瞳は、何も見てはいなかったから。疎らな来場者にも、古びた遊具にも、中に誰もいない檻すらも見てはいない。


 彼女はただ、遊園地を楽しむ子供を演じているだけのようだった。

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