獣と鬼と


 瑞穂の部屋の前に、宗谷は立った。辺りは、先程の異音が嘘のように静まり返っている。物音ひとつしない。異質なものは感じられない。何も無い。ドアの奥にいる筈の人間の気配すら。


 チャイムを鳴らしても、声を掛けても部屋の中からは反応が無かった。彼は焦れた。我慢できずに彼は、ノブに手をかけ、それを回した。何の抵抗も無く、ドアは開いた。鍵は掛かっていなかった。宗谷は瑞穂に悪いと思いつつも、彼女の部屋へと足を踏み入れた。


 部屋の中には誰もいない。部屋の照明やソファの上に置かれたノートパソコンの電源は付いたまま。窓は大きく開かれ、水玉模様のカーテンが風に揺れている。女の子の部屋にしては少々殺風景に思えた。それらしいものと言えば、部屋の隅に置かれた熊の人形、それだけ。


 彼は、自分の部屋とを隔てている壁へと視線を移した。以前、ドアの隙間から覗き込んだとき、この壁には無数の傷が刻まれていた。今は修繕されたのか、傷は跡形無く消えている。だが彼は、その真新しい壁紙に、僅かにヒビが入っているのを発見した。眼を凝らすと、まだあまり時間が経っていないと思しき血の跡が、点々と僅かながら付着していた。


 何があったのだろう。考えていると、宗谷はふと部屋の外に気配を感じて、外に出た。階下から、か細い足音が聞こえてくる。急いで階段を駆け降りると、細々とした電灯の光に照らされるようにして、小柄な少女が立ち尽くしていた。塚本瑞穂だった。


「どうしたの、こんな夜中に」

 宗谷は訊いた。思いがけず、乾いた声が出た。


「あぁ、宗谷さん」

 瑞穂は宗谷に気付くと、一瞬、驚いたように眼を見開いた。すぐにいつもの幼い微笑みを取り繕ったが、心なしかその笑みは硬く、ぎこちなかった。


「ちょっと小腹が空いたので、夜食を買いに行ったんですけど、お店が閉まってたので何も買わずに帰ってきたんですよ」

 と、その言葉も空々しく、どこか言い訳じみたものが感じられてならなかった。


 そもそも子供がこんな夜中に出かけるというのが不自然極まりなかった。だが今の宗谷には、そんな些細なことを気にしている余裕は無かった。彼はまず、努めて冷静に訊ねた。


「さっき君の部屋から、また凄い音が聞こえてきたんだ。だから、慌てて出てきたんだけど」


 瑞穂の顔色、眼の色が変わり、口許が微かに震えたのを彼は見逃さなかった。

「わたしの部屋から?」

 と、とぼけたように首を傾げても、彼女の動揺は薄暗い中でもはっきり見てとれた。


「そうだよ。君の部屋から聞こえてきた。以前、君はあの音が、君が寝ぼけて壁を蹴る音だ、って言ってたね。でも、さっき君は部屋に居なかった。今、ここにいるね」


「そうですね。でも、それがどうかしました?」

 問い掛けの意図を敢えて無視するように、彼女は応えた。僅かに苛立ちを滲ませ、眼を細める。

「もう遅いので帰りますね。失礼します」


 強引に話を切り上げ、瑞穂は早足で宗谷と擦れ違い、離れていく。彼は振り返り、先程の問いを続けた。


「君が壁を蹴る音じゃなかったのなら、さっきの音は何だったのかな」


「さあ、わたしに訊かれても――。もしかして宗谷さんの幻聴だったんじゃないんですか?」


 宗谷に背を向けたまま、瑞穂はそっけなく呟くと、そのまま階段を上っていってしまった。


 瑞穂が去ると、今にも消え入りそうに点滅する電灯の明かりと、棒立ちのままの宗谷だけが、そこに残された。彼は薄暗い道路の真ん中に立ち、腕を組んだ。やはり何かがおかしい、と。


 先程の様子からして、瑞穂は“何か”を隠しているように思えてならなかった。とすれば、それは彼女が時折剥き出しにする、鋭利で危険な感情とも何か関係があるのではないだろうか。


 そうなのだ、と彼は一人で頷いた。瑞穂は隠しているのだ。幼げな笑顔という名の仮面によって、自身の胸中にある憎悪や殺意といった強烈な負の感情とともに、その“何か”を。


 頼りなさげな電灯の光が、その点滅の周期が急に短くなったかと思うと、途切れた。辺りが暗闇に沈む。何事かと宗谷は上方を見上げた。消えた電灯が視界に入ったその瞬間、取り付けられていた電球が砕けた。彼は咄嗟に破片を避ける。その時、ふと背筋に悪寒が走った。


 背後から音が聞こえた。篭もった雷鳴のようにも、獰猛な獣の呻きのようにも聞こえる、重たく低い音。そこに、ざらざらした金属板を擦り合わせたような耳障りな倍音が混じっている。宗谷が以前、聴いたことのある音だった。彼は息を呑み、ゆっくりと振り返った。


 拳大の鋭い牙が、彼の眼前、数十センチのところで、びっしり犇めき並んでいた。獲物を飲み込まんとする鰐のように口を開ききった真黒の巨獣が、四つん這いで身構えていたのだ。


 宗谷は瞠目した。動揺のために後ずさる事もできず、彼はただ鈍く光る獣の牙と、血に染まったように紅く暗い口腔とを交互に見つめていた。


 獣がゆっくり身体を動かす。知性の欠片も無さそうな、本能に染まりきった黄色い瞳が見えた。獣は宗谷を睨み付けていた。彼もまた、獣を睨み返した。そうすることしかできなかった。


 奇妙なにらめっこは暫く続いた。宗谷はただ、巨大で異形な獣を眼前にして、それに襲われているということに狼狽えて動くことができないだけだった。だが、獣の方も何故か荒い息遣いで宗谷を睨み続けているだけで、襲いかかるわけでも、それ以上近付こうともしなかった。


 彼は全身の震えを堪えつつ、獣の様子を伺った。喉からは微かに呻りが聞こえた。口許から涎のような液体が滴り、その涎が地面で蒸発して、足元から朦々と白煙が立ち上っている。


 急に、獣が大きく動いた。上体を擡げ、獣はこれ以上無い程に大きく見開かれた瞳で宗谷を一瞥する。獲物に跳びかかる直前の肉食獣のようだ。彼は思わず身を縮め、両腕で身体を庇う。だが、その動作とは裏腹に獣は襲ってはこなかった。腕の隙間から、彼は覗く。雷音に似た咆哮を轟かせ、獣は跳び上がっていた。そしてやはり、夜の闇の中へと溶けるようにして消えた。


「何なんだ、あれは――」

 と、呟かずにはいられなかった。そしてふと、獣が最後に自分へと向けた瞳が、僅かに焦りを帯びていたように見えたことを思い起こす。ますます解らなかった。


 宗谷は溜息をついた。唇がまだ少し震えている。それでも彼は何とか落ち着きを取り戻し、部屋へ戻ろうと二階を見上げた。そこで、彼は凍りついた。震えていた唇までもが、硬直した。


 焦点の合っていない、それでいて明確に殺意と憎悪の宿った瞳が、じっとこちらを見つめていた。宗谷は咄嗟に眼を背け俯いた。まるで、忌まわしいものを目の前にしたかのように。


 瑞穂だった。彼女は二階の廊下に立ち尽くし、怨磋に満ちた表情でこちらを見下ろしていた。


 それは、今までに見た表情とは比べられぬ程に異様なもの。それまでは所詮、子供としての枠をはみ出ていた程度に過ぎなかった。だが今は違う。気のせいや思い過ごしでは無い。顔をあげた一瞬だけ視界に入ったそれは、明らかに人間の枠を逸脱しているように、彼には思えた。


 澱み血走る細められた瞳。牙かと見紛う程に尖った白い歯は下唇に食い込み、血が滲んでいる。廊下の蛍光灯に照らされ雪のように白く映える瑞穂の異様な、しかし美しさすら感じさせる冷たい横顔は、彼に鋭く長い刃物を連想させた。日本刀にも似た白く照り光る刃を。少しでも近づき触れようものなら、見境無く斬られてしまいそうな危険な何かを宿らせた妖刀を。


 彼は俯いたまま階段を上がった。二階には既に誰もいなかった。ふと気付くと、掌が汗でぐっしょり濡れている。宗谷は今更ながら思い知った。黒い獣の巨体や牙や無数の触手よりも、自分は、あの子に怖れを抱いているのだと。少女の殺気立った表情に。射抜くような鬼の眼に。


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