記憶


「――だけど、あたしは殺されてしまいました」


 羽衣千早は、ぽつりと呟き、顔を伏せた。淡々とした他人事のような話し方だったが、彼女の肩は、か細い背中は小刻みに震えていた。それは哀しみか、それとも虚しさからか。


 話が途切れ、冷たい沈黙が部屋に満ちた。宗谷は横目で机の上の時計を見た。深夜零時を僅かに過ぎたところだった。彼女の話を聞いているうちに、いつしか日付が変わっていた。


「千早ちゃん」


 宗谷は彼女の名を、躊躇いがちに呼ぶことしかできなかった。彼が考えていた以上に、羽衣千早の生涯は暗く哀しく、救いようの無いものだったから。


「あたしを殺したのは――」

 心の整理がついたのか、千早が再び口を開く。

「幹部と呼ばれていた男の人です」


「幹部――って、君の友達の弥生ちゃんって子を殺して、君をも殺そうとした?」


「そうです。みんなと別れてから、あたしは追っ手に見つかりました。それがその男でした。あの人は、最初からあたしに狙いを定めていたんです。もっと言うと、最初の街に着いた時点で、いつでもあたしを捕まえることができたはずなんです。あたし達は、街までの道を良く知らなかった。車を使えば、追っ手は容易に先回りできます。たぶん、あの人は、あたしたちが別れるのを待っていたんです。あたし達を一人一人確実に始末するために。三人一緒だと、一人を捕まえているうちに他の二人が逃げ出す。騒ぎになるのを怖れたのかもしれません。


 あたしは夜の街を走って逃げました。だけど、やっぱり子供の足で大人から逃げるには限界がありますよね。あたしは捕まりました。それが、あの場所です。宗谷さんと初めてであった場所。誰からも忘れ去られてしまったかのように寂しく薄暗い、あの路地裏だったんです」


 宗谷は目を閉じ、眉を潜めた。彼女の話が、ついに最期の部分に差し掛かったからだった。


「あの人に頭を掴まれて、あたしはコンクリートの壁に後頭部を叩きつけられました。その頃には既に、あたしの意識は身体を離れていました。だから本当の意味で、あたしは死を経験したわけじゃ無いのかもしれません。厳密に言えば、あたしは羽衣千早ではなく、彼女が死の間際に見た走馬燈の残り滓に、単なる残留思念に過ぎないんですから」


 目を開き、宗谷は彼女を見た。物憂げな表情を浮かべ、千早は話し続ける。その大きく見開かれた瞳は、焦点が合っていなかった。


「約束を果たせなかった悔いから、あたしは――身体から離れた残留思念だけは、その場に残り続けました。でも死の間際に感じた恐怖と、これで終わりなんだという絶望から、あたしの――残留思念の時間は止まってしまいました。まるで、凍りついてしまったかのように。


 凍りついた朧気な意識の中で、あたしは見ました。羽衣千早が死ぬところを。彼女の頭が壁に打ちつけられて砕かれる、その瞬間を。割れた頭から血を飛び散らせながら、アスファルトの上に倒れる、羽衣千早の屍体を」


 千早の唇が小刻みに震え始めた。半透明な全身が、ぼんやりと白い光を帯びる。宗谷は彼女の肩に、触れられないながらも手を添えた。ゆっくりと、抱きしめるかのように。


「千早ちゃん。無理して話さなくても、いいよ」


 宗谷の胸の中で、千早は激しく首を横へ振った。顔を上げて宗谷を見つめ、限界まで吸い込んだ息を一気に吐き出しながら、彼女は涙声で呟いた。


「人間って死ぬと、あんなにも人相が変わるものなんですね。羽衣千早の屍体は、自分でも誰だか分からないくらいに顔が歪んで――変形しきっていました。顔面は蒼白で、白目を剥いていて、耳や眼や、そして鼻から、膿んでいるかのように濁った色をした血が溢れて、涙や鼻水のように垂れ流されていました」


 宗谷は、じっとこちらを見据えている千早の顔を見つめた。その物憂げながらも可愛らしく大人びた顔立ちからは、彼女の言う、悲惨な死の形相など想像することすらできなかった。


 不意に強い憤りを宗谷は覚えた。それまでは彼女の哀しみに呑まれて怒りすら忘れていた。だが、彼女の憂いに満ちていながらも可愛らしい顔を目の前にして、それを無惨にも破壊した男に対して、その残忍な所業に対して、彼は怒らずにはいられなかった。


「本当に、非道い――」


 宗谷は思わず口走っていた。

 千早は耐えかねたのか目を閉じた。目尻にうっすらと涙が滲んでいる。


「それから、羽衣千早の屍体は施設の人たちによって、ごみ袋へと入れられました。羽衣千早の――あたしの屍体は、まるで汚らしいもののように、ごみのように引きずられて、どこかへと運ばれていきました」


 宗谷は身体の芯から溢れてくる怒りを堪えつつ、想像した。かつて少女だった無惨な屍体を、数人の男達が寄って集って黒いごみ袋へと押し込み、近くに停めた車まで、ずるずると引きずっていく、その様子を。頭が沸騰しそうになって、彼は小さく息を吐いた。


「あたしの意識だけが、残留思念だけが、そこに置き去りにされました。あたしの意識は、約束を果たさなければならないという想いによって存在し続け、しかし死ぬ直前の恐怖や絶望とかいったものに固定されてしまい、その時は止められ、凍りついてしまったんです」


「それからずっと、君はあの路地裏にいたんだね。凍りついた意識のまま」


 そうです、と千早は頷いた。


「宗谷さんがあたしに話しかけてくれたおかげで、凍りついた意識は溶けました。でも――」


「でも――?」


「ですけど、あたしは、あたしの存在している理由は、死の直前に友達と交わした約束を果たすことにあるんです。だから、あの約束を果たさない限り、あたしは消えることができない」


 彼女の最後の一言に、宗谷は息を呑んだ。彼は、以前に千早が、消えてしまいたいと言っていたことを思い出していた。“自分が既に死んでいることがはっきりとしてくると、逆に消えてしまいたいと思うようになる。なぜなら、もう死んでいることが解りきっているから。もう、生きているうちにやりたかったことは、何もできないから。本当に何もできないから”と。


「君は、今でも消えてしまいたいと、思っているの?」


 宗谷は恐る恐る訊いた。彼としては、たとえ彼女自身が望んでいたとしても、千早には消えて欲しく無かった。宗谷の特異な能力の唯一とも言える理解者であり、救いであったから。そしてなりより宗谷にとって、彼女はもはや家族同然、妹ともいえる存在になっていたのだから。


「いいえ」

 千早は首を振る。

「今は、宗谷さんがいますから。宗谷さんとお話したり、一緒テレビを見たりするのは、とても楽しいから。だから今はもう、消えたいなんて思ってないです」


 千早は目尻に溜まった涙を拭い、微笑んで見せた。だが、その瞳はすぐに別の色を帯びた。


「それでも、あの約束は今でも、あたしにとって一番、大切な想いなんですよ」


「それでも、って。どういう意味?」

 宗谷は彼女の言葉の意図が分からず、漠然と呟いた。


「いえ、あの」

 千早は不意に動揺したかのように視線を巡らせると。

「あたしにとっては、それだけ大事なことなんです。だから、あの、外出を許可してもらって、あの場所へ──約束の場所へ行ってもいいと言ってくださって、ありがとうございます」


「お礼なんていいよ。千早ちゃんにとって、約束の場所で友達を待つことが、とても大事なことだっていうのは解ったからさ。ただし、さっきも言ったけど、一人で勝手に外出しないこと。僕と必ず一緒に出掛けること。いいね?」


 千早は、こくんと小さく頷く。そこで話は終わり、会話は途切れた。辛く重い話をした直後故か、二人は黙り込んだままだった。宗谷は沈黙を紛らわすかのように、テレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。やっていたのは、深夜のニュース番組だった。


「この間、約束の場所に行ったときには、友達には会えなかったの?」テレビの音に掻き消されてしまいそうな程の静かな声で、宗谷は呟いた。


「会えませんでした。そりゃそうですよ。約束は“一年後に会おう”なんですから」哀しげに目を伏せ


「あれから、もうだいぶ――」

 そこまで言って、千早は急に口を噤んだ。


「どうしたの?」

 宗谷は訊いた。


 千早はテレビの画面を指さしながら「これ、なんですか?」


 それは遊園地のCMだった。千早は不思議そうに物珍しそうに、そして食い入るように画面に映しだされている遊園地の風景を眺めていた。


 千早は遊園地を知らないのだ。そう悟った瞬間、宗谷は胃が詰まったかのような胸苦しさを覚えた。画面では楽しげなメロディに合わせて、遊具に乗った子供達が、笑顔を見せている。近くで見守っている両親へ、無邪気に手を振っている。彼は思わず、それらから眼を背けた。


 千早は知らないのだ。彼女はずっと、非道い場所で育ったから。そこには楽しいことなど何もなかった。哀しく、痛く、辛いことしかなかった。動物園や遊園地に連れていってくれる大人など、もちろん誰一人としていなかった。だから変に小難しいことは知っていても、肝心なことを知らないのだ。子供なら、誰でも知っていること。誰でも体験しているであろう事を。


「あれは、遊園地っていう場所だよ」

 声を詰まらせつつ、宗谷は説明を始める。


 その時だった。隣の部屋から物凄い音が響いてきた。また、だ。壁を大きな何かで叩きつけるような音。どう考えても、小さな女の子が寝ぼけて壁を蹴ったなどという生易しい音では無い。どしんどしんと、壁一面が、部屋全体が小刻みに震えるような、地響きにも似た音だった。


 宗谷は立ち上がった。やはりおかしい。あの子には、瑞穂には何かがある。何かを隠している。彼は、隣の様子を観てくる、と困惑した面持ちの千早へ告げ、外へ出た。

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