約束


 その時だった。大きな音が聞こえた。風が狭い場所を吹き抜けていくときのような、低く重たい、何かの唸り声のような音だった。


 突然、幹部と呼ばれる男の身体が弾かれたように、千早から離れた。吹っ飛ばされた、と言ってもいいほどの物凄い勢いだった。千早は男から解放されると、首筋を押さえつつ、げえげえと息を吐きながら、その場に蹲った。と、同時に背後から声を掛けられた。聞き覚えのある女の子の声。


「ちーちゃん、大丈夫? ずっと帰ってこないから、心配して様子を見に来たんだけど――」


 谷町若葉だった。千早の顔を心配げな表情で覗き込んでいる。その後ろには、九条響が立っていた。彼は、吹き飛んだ男の方へと向き、両手を前へと突きだしていた。何かの構えをとっているようだ。苦しげな表情を浮かべ、噛み締められた口許からは荒い息が漏れている。


 男を吹き飛ばしたのは響なのか。千早は信じられない思いで立っている響を眺めた。細く華奢な体躯の彼に、大人である幹部という男を弾き飛ばす力など無いことは明らかだった。


「谷町さん、羽衣さんを連れて、下がってくれ」


 響は叫んだ。若葉は彼の言葉に従い、ふらついている千早を抱き寄せると、部屋の外へ出た。


 また、大きな音が聞こえた。続いて、何かが壁に叩きつけられる音。千早は入り口から、音のする方を覗いた。部屋の中では幹部と呼ばれた男が、見えない何かに弾かれたように宙を舞っていた。そして、その現象をコントロールするかのように、響が前へ突きだした両腕を動かしている。


 千早には何が起こっているのか理解できなかった。だが、目の前で起こっていることは、受け容れざるを得なかった。響が、普通で無い何らかの力を使い、自分を助けてくれたのだと。


 響が部屋から飛び出してきた。千早と若葉を交互に見つめて、彼は言い放った。


「ここから逃げよう。このままだと、僕らも殺される」


「逃げるって――」

 若葉が躊躇いがちに。

「どの扉にも鍵が掛かっているのに、どうやって逃げるの? それに、ここの大人達は、みんな追いかけてくるよ。あたし達、逃げ切れるのかな」


 いきなり、何の前触れもなく衝撃音が轟いた。千早達の目の前で、壁が爆ぜたのだ。


 爆ぜた壁へ、響は片手を突きだしていた。爆発は、彼の“力”によって成されたに違いなかった。壁には穴が空き、夕焼け空が覗く。施錠され隔離された施設からの、唯一の逃げ道。


「立花さんみたいに、死にたいの?」


 唇を噛みしめ、響は部屋の中を睨んだ。千早もつられて部屋を覗く。部屋の中では、幹部と呼ばれた男が気を失い、弥生の屍体の上に倒れていた。屍体は男の体重を支えきれずに、床に四散している。


 若葉は顔を顰めて俯き、こくんと頷いた。

「わかったよ。響くんが、そこまで言うなら」


「それなら急ごう。でないと、すぐに追っ手が来る」


 三人は、コンクリートの破片を踏み越え、今にも崩れてしまいそうな壁穴をくぐり抜けると、夕闇の中を駆けだした。


 ●●


 施設は、山の中腹に建てられていた。近くの川沿いに道を下ると、暫くして見晴らしの良い場所に出た。既に辺りは暗くなっていたが、見上げるとロープウェイの明かりが点々と見える。眼下には山と海に挟まれるように、ビル群が犇めいていた。都市部の中央を、突っ切るようにして線路が通っている。あまり外に出たことの無い千早には、その光景すべてが新鮮だった。


「あの電車に乗って、もうちょっと大きな街に逃げよう。でないと、奴等に追いつかれる」


 響の提案に従って、千早達は街へと下り、施設からくすねてきたお金を使って電車に乗った。三人ともパジャマのような施設の服を着たままだったが、気にしている余裕は無かった。ドアが閉まり電車が動き出すと、千早はほっとしたように息を吐き、小さな声で響へと訊ねた。


「どうして、街の誰かに助けてもらわなかったの?」


「無駄だよ」

 響は疲れたような声で。

「聞いたことがあるんだ。以前にも街に逃げて、警察と児童相談所に保護された子がいたんだって。でも、どういう訳か、すぐ施設へと連れ戻された」


「まさか――」

 若葉が眉を潜めた。


「本当だよ。江坂くんが言っていたんだ。施設に連れ戻された後、その子は“検査”されたらしい。その子が誰かまでは、訊かなかったけど、僕たちが知らない子だと思う。たぶん――」


「もう、いいよ」

 若葉は、響を制した。

「そこから先は、聞きたくない」


「それより、響くん」

 押し黙った響を正面から見据え、千早は恐る恐る彼の手に触れた。

「さっきは、どうやって壁を壊したりしたの? まるで超能力みたいだった。響くんには、そういう力があるの?」


 響は顔を伏せ、無言のまま頷いた。若葉が横から口を挟む。


「そんな力が、超能力みたいなのがあるなら、なんで今まで使わなかったの? 逃げようと思えば、いつでも逃げられたのに」


 彼は答えなかった。ただ一言、ぽつりと。

「あの変な夢。流れ星の悪夢を見るようになってからだよ。こんなことになったのは」

 とだけ呟いた。

「だから軽々しく使えるわけ、ないんだ」


 重い呟きだった。響の暗く陰を帯びた、思い詰めた表情を目の当たりにし、彼女らはこれ以上訊ねることはできなかった。その時、電車は目的地に、彼の言う大きな街へと到着した。


「ここからは、別々に逃げよう」

 駅の改札口を出るなり、そう言ったのは響だった。


「どうして? 一人で逃げるなんて、できないよ」


 若葉の訴えに、響は首を横へと振った。


「僕らは施設の服を着たままだ。着替える余裕が無かったから仕方ないけど、たぶん施設の追っ手は、すぐにこの街に来る。三人で一緒に逃げていたら目立って、すぐに見つかっちゃうよ。まずは別れて、暫くは誰とも関係を持たず、ひっそりとしていた方が良い」


「じゃ、ここでみんなと別れるの? そんなの、あたしは嫌だよ。みんなで一緒にいたいよ」


「谷町さん。冷静に考えて。僕らが三人で一緒にいるのは、危険すぎるんだ」


「あたしも、三人で一緒にいると捕まりやすくなると思う」

 千早は宥めるような口調で話しかける。

「でも、施設の人だって、ずっとあたし達を探し続けたりはしないよ。だから――」


 響と若葉は、ほぼ同時に千早を見やった。千早は言葉を区切り、二人だけに聞こえるくらいの小さな声で囁いた。


「一年後に会おうよ。ここで、この場所で、この時間に。その後のことは、そこで考えよう」


 響は千早を見据えたまま、小さく頷いた。若葉は心細げに黒目を揺らし、千早と響とを交互に見つめたが、やがて溜息をつきつつも、頷いて見せた。


「わかったよ、ちーちゃん、響くん。でもね――」

 若葉は顔を上げ、一言一句噛み締めるような強い口調で。

「これは、約束だからね。絶対に一年後に、ここに来てね」


「もちろんだよ」

 と、響は応じた。


 千早は若葉の両手を握り締め、その指の震えを和らげるように優しく微笑んで見せた。


「わかってるよ、若葉ちゃん。約束だよ。一年後、必ず、ここで会おう」


 子供達は再会の約束を交わすと、それきり言葉を発するのをやめた。彼等は無言のまま、ネオンの輝き眩しい街へと、それぞれに駆け出していった。


   ●●

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