禁忌の場所
数日後、子供達を取り巻いていた状況は一変した。
千早が施設の地下で掃除をさせられているときのこと。不意に躓いた彼女が、廊下に掛かっていた掲示板の木枠を咄嗟に掴んでしまったのが事の発端だった。少女の身体を支える筈の木枠は、しかしその役割を果たさずに、ガタリと音を立てて動いた。連動するように壁がスライドし、その裏から扉があらわれた。
まったくの偶然だった。千早は誰も知ることのない、隠された部屋を見つけてしまったのだ。
これは隠し部屋だと、何かの理由で隠蔽された部屋なのだと、千早はすぐに感づいた。彼女は掃除を中断して隠し部屋へ足を踏み入れた。その行動は好奇心や興味本位からくるものでは無かった。不吉な何かを、彼女は感じていた。先程から、何か嫌な予感がしてたまらなかった。
部屋からは血の臭いがした。千早はふと、江坂を思い出した。部屋の臭いは、江坂が死の間際に発していた血腥い体臭に似ていた。彼女は口許を押さえながら、部屋の中を見回した。
すぐ目についたのは、バケツの中のペンキをひっくり返したかのように、床や壁一面にこびり着いている黒く乾いた血の跡だった。千早は驚愕し、腹が潰れたような呻きを上げた。思わず、口許を押さえていた手に力が入る。胃が痙攣し、酸っぱいものが喉元までこみ上げてきた。
まさか、ここは――千早は考えを巡らせた。そして疑いようの無い結論に達した。ここで、この部屋で、江坂は、他の子供達は、“検査”させられていたに違いない、と。
そこまで考えたとき、千早は部屋の隅にあるスチールロッカーに気付いた。血塗れな部屋以上に、それは異様だった。扉の隙間から静かに、しかし滝のように夥しく、鮮血が溢れ流れ出ていたのだ。灰色だった筈のスチールロッカーは、真っ赤に染め上げられていた。
千早は震える指先で、ロッカーの取っ手に手をかけた。息を呑み、ゆっくりと扉を開く。
小さな人間の屍体が、そこにあった。
悲鳴は上がらなかった。ただ、足元が揺れるようにガクガクと震え、やがてその震えは全身に及んだ。千早は呆然としたまま、これが夢であって欲しいと、一時の悪夢であって欲しいと願いながら、ただ屍体を眺めることしかできなかった。しかし彼女の頭の中の妙に冷めた芯の部分では、これは現実なのだと、目の前の屍体は本物なのだと、残酷なまでに、はっきりと理解していた。理由は単純だった。何故なら、夢だと疑う余地もない程の非道い屍体だったから。
屍体は四肢を折り曲げられた窮屈そうな格好で、ロッカーの中に押し込められていた。ある程度、時間が経っているのか、手足の先端部分は腐りかけている。苦痛に歪められていたであろう顔は、腐敗と損傷が激しく、溶けて掻き回されたようになっていた。その為に、一瞥しただけでは、この屍体が誰なのか、男なのか女であるのかすら、千早には判別がつかなかった。
立ち尽くしたまま、虚しく時が過ぎていく。暫くして、やっと千早は呟いた。
「やよい――ちゃん、なの?」
皆の前から姿を消していた立花弥生の屍体であると、千早は気付いた。よく見れば体型が似ている。彼女が好んで身につけていた時計や髪飾りが、血にまみれ屍体に食い込んでいる。
「なんで、やよいちゃんが、こんなところで――」
呆然とし、全身を小刻みに震わせながら、千早がそこまで言ったときだった。
「羽衣千早――」
いきなり背後から呼ばれ、千早はすぐに振り返った。若い男が、隠し扉のすぐ前に立ち、仮面のように冷めた表情で千早を見つめていた。この施設の幹部と呼ばれる男だった。
「あ、あの――」
動揺から声が出なかった。喘ぐように。
「これは、一体」と訊ねる。
「立花弥生だ。お前と同じ部屋にいた」
呆れるほど素っ気なく、男は言った。目の前の屍体が、屍体では無いかのような。もっと平凡でありふれたもののような言い方だった。男を睨みつつ、千早は胸が熱くなるのを感じた。
「知ってますよ。あたしが訊きたいのは、どうして、やよいちゃんが、こんな姿で死んでいるのかってことです」
そこまで言って、千早ははっとしたように目を見開き。
「まさか、あなたが――」
「いや、これは事故で――」
男は、千早の言葉を遮るように。
「やむなき犠牲だ」
「事故って、これがですか。この有様が、ですか」
「そうだ」
言いながら、男はじりじりと千早へと近付く。
千早は身構え、後ずさった。
「事故なわけ無いじゃないですか。やよいちゃんは、“検査”されたんでしょう? “検査”されて、その途中で耐えきれずに、死んじゃったんだ。あの子は、殺されたんだ」
「ヒトは――命尽きねば目覚めず、しかし目覚めなければ、ただ死ぬのみ――」
取り乱す千早を気にも留めず、幹部と呼ばれる男は不意に意味不明な言葉を口走る。そして最後にこう付け加えた。
「良き芽は管理せねばならぬし、危険な芽は刈り取らねばならぬからな――で、君は」
鋭い眼差しで幹部と呼ばれる男は千早を見据えた。男の視線に気圧されて、千早は壁に倒れる。その拍子に壁が破れた。隠し部屋の中に、さらに部屋が隠されていた。
千早は隠し部屋の最深部を見てしまった。そして、絶句した。
幹部と呼ばれた男は腕を伸ばし、固まったままの千早の肩を掴むと強引に壁から引き離した。物凄い力だった。そのまま彼女の身体は、反対側の壁へと押しつけられた。
「命尽きねば目覚めず、しかし目覚めなければ――」
男は言いながら、彼女の白く華奢な首筋へ、太く黒い指を食い込ませた。指先には殺意が宿っていた。彼女は口を開け、掠れた悲鳴と呻きを漏らす。唇の端から白い泡が飛び散った。
殺される、と千早は思った。弥生の屍体を、あれを見たから。もう見なかったことにはできないから。知ってしまったから。後戻りはできないから。そして江坂や弥生のように、心も体も壊され、掻き回されて、醜く惨めな屍体として、この部屋でぐずぐずに腐ってしまうのだ。
どうしてなのだろう。千早の目尻に涙が溢れた。何故、こんな目にあわなければならないのだろう。こんな施設にさえいなければ、こんなことで死ぬことも無かったのに。こんな哀しい死に方をしなくて、すんだかもしれないのに。
本当に、ここは、この施設は、非道いところだ。
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