仄暗く凍りついた部屋で


 部屋の真ん中で、身を寄せあうようにして三人の子供が蹲っていた。


 三人の内の一人、羽衣千早は怯えていた。いや、物心ついてから、彼女は常に怯えていた。今もまた、遠くの部屋から聞こえてくる男の怒声と、そして彼女と同い年くらいの女の子の泣き声に、膝を震わせていた。


「やよいちゃんは、帰ってこないね――」


 千早の横で同じように蹲っていた女の子、谷町若葉が不意に呟いた。彼女は呟くと同時に、顔を伏せた。震える息づかいが、漏れて聞こえる。その隣にいた男の子、九条響は聞くに耐えないといった表情で、彼女から眼を逸らした。


 谷町若葉と九条響、そしてやよいちゃんこと立花弥生は、千早の友人だった。三人とも、千早とは違い、数年前に“外”から来ていた。千早はすぐに彼等と仲良くなり、そして“外”の話を聞いた。それだけでなく、世間の常識や勉強を、たくさん教わった。そこで彼女は、自分が普通の子供とは違う境遇におかれていることを知った。それまでは空腹も、殴られることも、蹴られることも、そして今のような怯えと膝の震えも、普通のことだと、自分と同じ年代の子供達は皆平等にこのような境遇にあるのだと、信じ切っていたのだから。


 数年前、この施設に連れてこられた彼等は、ここの大人達に聞こえないように、口々に言っていた。ここは、非道いところだ、と。今までの常識も良心も一切が通用しない、社会からありとあらゆるものが切り離された陸の孤島だと。


 この施設には、子供たちが集められていた。施設に連れてこられた理由は様々で、若葉や響のように事故で両親や失い、頼る親戚も居なかったために“外”から施設の人間に引き取られた者もいれば、千早のように物心ついたときから施設にいた記憶しかなく、“外”がどうなっているのかも、いつから何故この施設に自分がいるのかも知らないような者もいた。


 共通しているのは、ここの子供は誰一人として「この施設が何を目的にして子供を集めているのか」を知らないし、知らされていないということ。


 壁を震わせるほどの、凄い音が聞こえた。さっきから怒声を上げていた男が――ここの施設の大人達が、女の子を蹴り飛ばし、壁に叩きつけた音に違いなかった。泣き声が悲鳴に変わった。


 千早はゆっくりと顔を上げ、薄暗い部屋を見渡した。部屋は狭く、薄暗く、そして汚かった。所々に埃がたまり、壁や柱には黒い染みがこびり着いている。この黒い染みは、殴られ、蹴られ、しまいには刃物で斬りつけられたときに迸った、千早や、他の子供達の鮮血の跡だった。


 ここの施設の大人達は、最低の人間ばかりだった。子供達を憂さ晴らしの玩具としか考えていないようだった。少しでも気に障ることがあると、刃物を持ち出して振り回す。千早や若葉達は、何度も斬られ、怪我をした。千早が先端恐怖症のようになったのも、ここの大人達のせいに違いなかった。


「ねえ、ちーちゃん」

 若葉は不安げな声で、千早を愛称で呼ぶと。

「やよいちゃん、帰ってこないね──」と、先程と同じことを、また呟いた。


 千早は無言のまま意味もなく頷き、若葉の譫言を聞きながら考えていた。


 立花弥生は数日前から行方がわからなくなっていた。ここでの非道い暮らしに耐えきれなくなって、逃げ出したんだろうか。それなら、無事に逃げ出すことはできたのだろうか。それとも――。


 ふと、響と目があった。彼は痩せた身体を震わせていた。体調が優れないようで頬は痩け、虚ろな眼をしている。千早は数日前、響が言っていたことを思い出し、訊ねてみた。


「また、変な夢を見たの?」


 囁くような千早の問いに、肩で息をしつつ、響は辛そうに頷いた。


「うん――逃げても、逃げても、あの光は追いかけてきて、僕を貫くんだ」


 響は時折、異様な夢を見るのだそうだ。溺れそうなほどに深い闇の中、流れ星が身体を貫いて、灼けるような痛みに身悶える、悪夢。かなり昔から、彼はその夢に悩まされてきたらしい。


 響の身体や頬が痩せこけているのも、ここの劣悪な環境のせいだけでなく、悪夢によってずっと苦しんできたからではないか、と千早は彼の顔を、その暗く沈んだ瞳を見つめつつ思った。


「辛いのは解るけど、気をつけてね」

 若葉が横目で響を見つめながら。

「難癖つけられると、大変だからさ。あいつにとっては、あたし達にひどいことをする理由は何でもいいんだから。そんな顔してたら、響くん、あいつに目を付けられて、ひどいことをされちゃうよ」


 大人達は定期的に、自分の気に入らない児童を名指しし、“検査”と称する虐待を行っていた。“検査”は、普段の暴行とは――今、遠くの部屋にて行われている私刑とは、明らかに異なる次元の、壮絶な虐待のことだった。千早や若葉達は“検査”されたことは無かったが“検査”されたことのある友人は知っていた。


 その友人の名は、江坂といった。彼は子供達の中で最も年上で、施設の子供達にとって、兄のような、リーダー的な存在だった。ろくに勉強を教えようとしない施設の人間に代わって、子供達に勉強や常識を教えたりもしており、千早自身も、彼からは色々な事を教わった。


 かつて、彼は施設で横行する虐待について、施設の大人達に抗議を行ったのだ。もう、こんなことはやめて欲しい、


 だが、江坂の訴えはまったく聞き入れられず、虐待は無くならなかった。むしろ、以前よりも非道くなっていった。そしてその混沌の中で、ついに、江坂までもが“検査”されてしまった。


 戻ってきた彼は、もう皆の知る江坂では無くなっていた。全身は痣だらけで、放たれる体臭は血腥かった。端整な優男の顔は、原形がわからぬ程にぶくぶくに腫れ、眼や耳は潰れていた。


 その時の江坂の様子を、千早は克明に記憶していた。千早には、まるで彼が壊れているように見えた。見た目だけでなく、彼の芯の部分も、人格すらも崩壊してしまっているように感じた。呼び掛けても、触っても、まともに反応を示さず、彼は呆けたような瞳を泳がせているだけだった。もう、知的で正義感に溢れていた江坂の面影は、微塵も感じられなかったのだ。子供達の憧れであり、リーダーでもあった彼は、もう死んでしまっていたに等しかった。


 “検査”されてからの江坂は、次第に異常な行動が目立つようになった。彼は常に、何かに酷く怯えていたが、やがて夜中に意味不明な言葉で叫き散らすようになった。子供達は夜空に木霊する狂った叫び声に、施設に楯突くことの恐ろしさを思い知り、もう二度と大人には逆らわないと誓いつつ、眠れない夜を過ごした。だが、その眠れない夜も、長くは続かなかった。


 江坂は原因不明の発作で、あっさりと死んでしまった。原因は考えるまでもなかった。“検査”によって身体や頭がおかしくなって、ついに限界が来て、死んでしまったに違いないのだ。


「本当に――気を付けてね」

 若葉は、念を押すように呟いた。今にも泣き出しそうな声だった。

「もう、あんなの、嫌だからね。響くんまで、あんなことになったら、あたしは――」


 若葉の涙声に、千早は眼を伏せた。彼女らにとって江坂のことは、もはや禁忌となっていた。それでも言わずにはいられないほど、若葉は追いつめられているのだろうか。千早は自身の心が、この部屋に蔓延っている仄暗く凍りついた空気のように、冷えていくのを感じていた。

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