とても大事なこと

「何か、あったんですか?」


 瑞穂と別れ、アパートの自分の部屋に戻ると、開口一番、千早は訊いてきた。


「顔色が悪いですよ。あの雨の夜よりも、ずっとひどい──」


 病院で無数の残留思念を見てしまった日のことを言っているのだろう。確かにあの時、彼の神経は限界に近かった。そして今も、彼女の言うとおり、宗谷の精神は限界を超えかけていた。


「大丈夫――では無いけど、心配してもらうほどのことじゃないよ」


 宗谷は無理にそう言うと玄関に鍵をかけ、部屋にあがると、すぐにカーテンを閉めた。カーテンの隙間から慎重に外の様子を伺う。だが何も無い。何も見えない。何の気配も感じない。


「本当に、心配しなくて大丈夫だから」


 力のこもった口調で、自分にも言い聞かせるように、宗谷は呟いた。千早はきょとんとした表情で宗谷を見つめたまま、彼の言葉に促されるように頷いた。


 宗谷は、先程遭遇した獣のことを考え、怖れていた。あの獣は残留思念を喰らっていた。そして何故かはわからないが、獣は二度も自分を襲っている。ということは千早も襲われ、喰われてしまうかもしれないのだ。駅前の道路脇に蹲っていた、あの女の子の霊のように。


 宗谷は拳を握り締めた。この子は――いや、この子だけは、あの子のように、みすみす喰わせはしない。あんな悲惨な目には絶対にあわせない。もう、目の前で誰かが傷つくのも、喰われて消えるのも、あんな悲痛な叫びを聞くのも、嫌だから――だから、何とかしなければ。


 宗谷は机の引き出しを開けると、小刀を取りだした。かつて、彼が小学生だった頃、鉛筆削りやハサミの代わりとして使っていた小刀だった。もう長い間、使っていなかったので、ケースは埃を被っている。宗谷は小刀を握り締めると、ケースから刀身を引き抜いた。千早を庇うようにして部屋の中央に立つと、彼は身構えた。だがしかし、その指先は僅かに震えていた。


 数分の間、部屋は張り詰めた緊張に包まれた。しかし、黒い獣はあらわれなかった。宗谷は執拗に辺りを見回した。やはり獣はいない。その気配すら感じられない。ここにはいない、ということなのだろう。少なくとも、今はまだ。彼はふうと溜息をつき、小刀をケースへ収めた。


「あの、どうしちゃったんですか?」

 怯えているかのように肩を窄め、千早は訊いた。


「なんでもないよ。ただ、学校の近くで不審者による器物損壊事件が相次いでる、って話だからさ、自衛の練習をしてみようかなって。そう、思ったりしただけで」


 宗谷は咄嗟に嘘をついた。あからさまに不自然な嘘だということは承知の上だった。それは、黒い獣のことを、千早には話さない方が良いと思ったから。あまり彼女を不安な気持ちにさせたくはなかったし、話したところで、彼女にはどうすることもできないだろうから。


 宗谷は再度部屋を見回し、そしてカーテンの隙間から外の様子を伺った。誰もいない。何の気配も感じなかった。それもそうだろう。今まで数週間、何事もなかったのだ。ついさっき獣に襲われたからといって、すぐにまた、この部屋でも獣に襲われるとは限らないのだ。


 しかし、それにしても――宗谷は手にしていたケースを、その中に仕舞われた小刀を見つめた。もしも今、目の前に再度、獣があらわれ、先程と同じように残留思念を、つまり目の前にいる女の子を、羽衣千早の残留思念を喰らおうとしたとき、自分は彼女を守りきれるだろうか。


 恐怖心と、それと相反する昂揚した感情に押し切られるように、何とかしなければと、自分が守らなければ、と確かに思った。しかし本当に自分が、あの獣に対抗することなどできるだろうか。宗谷は、獣の異形を思い出していた。闇のように黒く、狼に似た姿。しかしその体躯は、バスやトラックほどはあろうかという大きさで、見上げるだけで、押し潰されてしまいそうな威圧感があった。あれほどに巨大な化け物を、こんなにも小さな刃物で――これしか武器になるものが無いとはいえ――どうにかしようなど、冷静に考えれば無謀すぎるのではないか。


「宗谷さん」

 千早は、彼に呼びかけた。

「とにかく、その刃物のケースをしまってください。あたし先端恐怖症なんですから。いくらあたしが残留思念で、物理的に刃物で切られたり、怪我したりすることがないからといっても、目の前で握られると、やっぱりちょっと怖いです」


「そう、だね。ごめん」


 それなのだ。宗谷は小刀の埃を布で拭い、机の中へしまいながら、千早に気付かれない程度に顔を顰めた。彼女の言うように、残留思念は実体を持たない意識だけの存在であるが故に、物理的な影響を受けることはない。残留思念が何かに触れることはできないし、その逆も然りで、誰も残留思念に触れたりすることはできない。だから宗谷も千早に触れることはできない。


 問題なのは、あの獣もその残留思念の一種かもしれないということだった。獣は、残留思念と同じく、宗谷にしか知覚できなかったのだから。そう考えるのが自然だろう。とすれば、刃物で斬りつけるなどという物理的な行為が、あの獣に対して効果があるとは到底思えなかった。


 結局、千早が獣に襲われて喰われそうになったとき、宗谷が取るべき手段は、彼女とともに一刻も早くその場を離れること。そしてひたすら逃げる、ということしか無いように思われた。


「やっぱり変ですよ、今日の宗谷さん」

 心配したように、千早は宗谷の顔を覗き込む。

「本当に、何があったんですか? また残留思念のヒトと出会ってしまった、とか」


「そういうのじゃないんだ。本当に」


 宗谷は右手を前に突きだし、何かを言おうとしている千早を制した。


「それより昨日、君はどこへ行っていたの? いくら君が霊で、誰にも見えないとはいっても、子供があんな時間に外に出るのは良くないよ。それに――」


 危ないから。外には霊を喰らう化け物がいるんだから。喉まで出かかったその言葉を、宗谷は寸前のところで呑み込んだ。


「それに?」

 千早は、不審げに眉を潜める。


「いや。とにかく今後は、勝手に外を出歩かないほうがいいと思うんだ」


 外出先で偶然、千早が獣に遭遇する可能性が無いとは言い切れないからだった。だが、その途端、千早は、ひどくがっかりしたような表情を浮かべた。よく見ると、彼女の瞳にはうっすらと涙すら滲んでいる。両手を胸元で握り締め、瞳を揺らしながら彼女は懇願した。


「それなら――宗谷さん、あたしに付き添ってくれませんか? 宗谷さんの付き添いがあれば、夜に外へ出掛けてもいいですよね」


 宗谷は躊躇った。獣は自分を狙っているかもしれないのだ。自分が千早に付き添えば、かえって危険かもしれない。だが、千早の懇願の言葉からすると、夜に外へ出掛けるのは彼女にとって、とても重要なことのようだった。この様子では外出を禁止したとしても、隙をみて勝手に出掛けるであろうことは、容易に予想できる。もし、そのとき千早が獣に襲われると、彼には対処のしようが無かった。そもそも獣の姿は、千早には見えないので逃げようもないだろう。


 それなら一緒に付き添って、獣に襲われたときに一緒に逃げた方が良い。自分がいれば獣の姿が見えるから、まだ対処のしようがあるかもしれない。


 この辺りで妥協しておいた方が良いのかなと、宗谷は溜息をついた。彼が不承不承疼いてみせると、千早の潤んだ眼が大きく見開かれた。泣かれるのかと危ぶんだが、そうではなく、彼女は宗谷へ向けて、にっこりとした微笑みを返した。


「ありがとうございます。我が侭ばかりいって、ごめんなさい」


「それはいいんだけど――でも、君はいつも、どこに出掛けているの?」


「約束の、場所です」


 思いがけない言葉が、千早の口から出た。いつの間にか、彼女は真顔に戻っていた。


「あたしを存在させ続けている理由です。だから、あたしには、とても大事なことなんです」


 千早は言っていた。“約束”をしたから、それが未練となって、千早の意識が残留思念として存在し続けていると。宗谷はそれを思い出して悟った。千早は語ろうとしているのだ。昨日、途中までしか話せなかったことの続きを。羽衣千早が、生前に、どう生き、どう死んだのか。


 なぜ、誰によって、殺されてしまったのか、を。


「約束したんですよ、みんなと、あの場所で再会しようって──」


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