黒き獣は無慈悲に喰らう、哀しき少女の残り香を


 残留思念だ、と宗谷は気付き、さらに彼女を凝視した。女の子は、悲痛な声で泣き喚いていた。事故か何かで死んでしまったのか、その全身は血塗れだった。左腕があり得ない方向に曲がっており、小さな脇腹からは生々しい臓器が飛び出し、小刻みに震え、蠢いていた。


 しかし、自身の身体の痛みから、彼女は泣いているわけではないようだった。壊れたブリキの玩具のように、不規則な周期で頭を振りながら、女の子は周囲を決死の形相で見回し、探している。お母さん、お母さんと、頻りに母親の名を、彼女は湿った声で呼び続けている。


 宗谷は女の子へ声をかけようとした。だが、目の前に睦月と瑞穂がいるせいか、彼の本能は、ほんの僅かに躊躇いを見せていた。睦月も瑞穂も、当然のように女の子の姿は見えていないようだった。それどころか二人は、黙ったままの宗谷へ、訝しげな視線を向けてすらいた。


 二人が不審に思うのも仕方ない。朽ちて茶色くなった小さな花が供えてあるだけの、誰もいない道路脇。それを呆然としたまま、表情を動かすこともなく、じっと見つめているのだから。


「宗谷さん」

 瑞穂が、思案するように小首を傾げ。

「どうしたんですか。一体――」


 そこで瑞穂の言葉は途切れた。少なくとも彼には聞こえなかった。急に、全身の神経が麻痺したような感覚に襲われた。黒く忌まわしい重圧が、身体にのし掛かっているかのようだった。


 同時に宗谷は見た。それはほんの一瞬のことで、彼は動くことも、声を出すことも、何かしらの反応をあらわすことすらできなかった。その瞬間だけ、本当に僅かな意識の隙間を縫って、悪い夢が左耳から侵入し、右耳から抜け出ていくような錯覚を宗谷は覚えた。だが、それは紛れもなく現実だった。少なくとも彼の認識の範囲内では、夢でも幻でも無かった。


 それの第一印象は、“獣”だった。黒い影を纏った野獣。夜の闇にまぎれるようにして、全身が真っ黒な獣が、上空から降り立ったのだ。ずどんという地響きが、宗谷だけに鳴り響く。


 四本脚の巨獣。それは狼に似た姿をしていた。しかし、その体躯はバスよりも、トラックよりも大きく、間近に立っているだけで、押し潰されてしまいそうなほどの威圧感があった。


 地面に降り立つと同時に、獣は背中一面から何かを勢い良く一斉に生やした。無数に映えたそれらは、夜の空へと縦横無尽に伸びていく。


 触手だった。獣の体色と同じ、真っ黒でグロテスクな触手。愕きと同時に、宗谷は思い出す。

 この触手――この獣こそが、以前、自分と桜花を襲い、果てに桜花を酷く傷つけたのだ、と。


 金縛りにあったかのように、宗谷は動けない。以前に襲われたときの恐怖が、全身を雁字搦めにしていた。彼の見ている眼前で、無数の触手は夜空を彷徨っている。まるで獲物を探している蛇のようだった。


 獲物。それは自分のことか。それとも、ここにいる誰かか。そう考えた時、残留思念の女の子が、こちらを振り向くのが見えた。彼女と目が合った。その瞳から、涙と憂いが溢れていた。


 その時、イソギンチャクのように闇夜に揺れていた触手が、ざざっと一瞬にして地面へと動いた。瞬きをする間もなく、無数の触手は女の子の残留思念に、全身に絡みついていた。


 女の子には、触手の姿は見えていないようだった。だが、強い力で締めつけられる圧迫感と痛みは感じているのだろう。聞こえてくる彼女の泣き声は苦痛に歪み、恐怖に震えていた。


 獣の身体の先端が、ばっくりと裂けるかのように開き、展開した。

 無数の鋭い牙が、喉の奥辺りまで隙間無く生えているのが見える。

 獣が口を開いたのだ。


 獣の背中から生えた触手は、締めつけている彼女の身体を、裂けた口まで引き寄せた。

 女の子は、身体を仰け反らせ、呻いた。

 叫きながら、咽び泣きながらも、必死で触手の力に抗っていた。


 しかし、そこで叫びは途切れた。


 泣き喚き続けていた女の子の声が、急に聞こえなくなった。

 代わりに聞こえるのは、血肉を噛み噛み潰しこねくり回す、生々しい音だけだった。


 音が止んだ。あとには、もう何も残ってはいなかった。女の子の霊は獣に喰われていた。


 獣は欠伸でもするかのように口を大きく開ききり、宗谷を睨み付けた。黄色い、意志も感情も見えない、ただ喰らうという本能しか無さそうな眼をしていた。宗谷は獣を睨み返した。


 すると獣は喉を小さく鳴らし、空を見上げた。そして跳んだ。獣の姿は一瞬にして消えた。巨大な黒い体躯は、夜の闇の中へと紛れてしまっていた。


 宗谷は立ち尽くし、獣の去った後を、喰われた女の子の霊が蹲っていた辺りを、呆然と見つめていることしかできなかった。喰われそうになった恐怖と、喰われなかったことへの安堵、そして心の底が抜けてしまったかのような無力感が、綯い交ぜになって彼の脳裏を回っていた。


 周りの人間は誰一人として、黒い獣や、喰われた女の子の姿は見えていないようだった。見えたのは自分だけ。泣き喚いている女の子の悲痛な叫びが、小さな身体が獣の牙によって潰されていく生々しい音が、耳に甦る。あの音を聞いたのも自分だけ。宗谷は唇を噛み締めた。


「なあ、大丈夫か?」

 睦月が、さすがに心配そうに声を掛けてきた。


「大丈夫だよ。でもまだ、ちょっと疲れてるのかな――」

 誤魔化すように、彼は答える。


 その時、宗谷は手を強く握り締められるのを感じた。手元に目をやると、つないだ小さな掌に、透き通るような白い皮膚に青筋が浮かんでいた。思わず、隣に立つ瑞穂へ視線を動かす。


「何を、見ているんですか?」


 真っ直ぐな瑞穂の視線が、宗谷を捉えていた。

 普段の子供らしい表情とも、不意に露わにする鬼気迫った鋭い表情とも違う、無機質で感情の読めない表情。宗谷は背筋に刃物をあてがわれたような冷たさを感じた。瑞穂は、棒読みのような口調でゆっくりと問いかけてくる。


「そんなところを、ずっと見つめて――何か、あるんですか?」


「いや、何も見ていないよ。ただ、ちょっと考え事をしていただけさ」


「そうですか」

 瑞穂はそれだけ呟くと、もとの微笑を浮かべた。

「そろそろ、行きましょうか」


 ●●


 帰りの急行電車に揺られながら、宗谷は考えていた。

 あの獣、自分や桜花を襲った黒い触手の本来の姿。あれは一体、何だったのだろうか、と。


 悪霊か何かの類なのだろうか。宗谷は思い起こす。女の子の霊を触手で掴み取り、無惨に食いちぎり噛み砕く、おぞましい姿をした獣。あれは残留思念を喰らう存在なのか。人間や動物が他の生命を喰らって、自信の生命を維持しているのと同じように。あの黒い獣もまた、残留思念を喰らうことによって、その存在を維持しているのだろうか。いや、自分や桜花に襲いかかり、しかも怪我までさせたことを考えれば、人間をも喰らってしまうかもしれなかった。


 だが、なぜあの獣は二度も自分の前にあらわれたのだろうか。それとも、あの獣は、今まで見えなかったから誰も気付かなかっただけで、実は無数に存在しているのだろうか。


 いや、それは考えにくいことだった。自分と桜花は実際に襲われているのだ。もし獣が頻繁に、それも無差別に人間を襲う存在なのであれば、たとえ見えなくとも、いずれは誰かにその存在を気付かれ、公にされていることだろう。そんな話は、今までに聞いたことがない。


 とすれば、恐らく獣は自分だけに狙いを定めて襲っているのだろう。自分以外の人間には獣の姿は見えないのだから、誰も襲わなければ、当然その存在が気付かれることはないのだから。


 だが、自分を襲う理由は何なのだろう。自分が残留思念を知覚できる、普通ではない人間だから喰らおうとしているのか。その能力故に、獣の存在に気付いてしまったから殺そうとしているのか。だが獣は、先程対峙したときには自分を睨んだだけで、何もせず去ってしまっている。それを考えると、自分を喰らったり殺したりするのが目的とも思えなかった。


「宗谷さん」


 突然に名前を呼ばれ、宗谷はふと我に返った。見ると、瑞穂が焦れたように、彼の手を引っ張りながら小さな声で呼んでいる。彼女は縋るような目つきで宗谷を見つめながら、言った。


「どうかしたんですか? もう、駅に着きましたよ」


   ●●

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