隣人と友人

 バイトが終わると、宗谷は素早く着替えて裏口から外に出た。もし、瑞穂が自分を目的として、毎日この店に来ているのなら、バイトを終えて帰ると同時に彼女も店を出るに違いない。宗谷はそう考え、店の入り口にある看板の影に隠れて、瑞穂が店から出てくるのを待った。


 数分も経たない内に、瑞穂が小さな鞄を持って店から出てくるのが見えた。あまりにも良すぎるタイミングに宗谷は驚きつつ、やはり自分の考えは思い違いなどではなかったと、気持ちが沈んでいくのを感じた。やはり瑞穂は、何らかの理由で自分の近くにいる。監視しているのかもしれない。とすれば、彼女が隣の部屋に引っ越してきたのも、偶然では無いのだろう。


 いや、違う。宗谷は拳を握り締めて頭を左右に振り、懸命にその考えを振り払った。思い直すんだ。これはただの偶然なんだと。あんな小さな子供が、どうして自分なんかを監視しなければいけないのか。自分が残留思念を知覚できる特殊な能力を持っているからだとして、それを知っているのは千早だけで、瑞穂にはそれを知る術はない。所詮は思い込みに過ぎないのだ。だから、こうして待ち伏せのようなことをして、瑞穂から話を聞こうとしているのだろうに。


 宗谷は僅かに下唇を噛み、雑念を頭の隅に追いやると、そっと瑞穂の背後に立ち、その小さな肩を撫でるように優しく叩いた。瑞穂は驚いたようにぴくりと身体を震わせ、振り向いた。


 瑞穂は見上げるようにして相手を見つめた。それが宗谷であることに気付くと、彼女は微笑みを浮かべ、ぺこりと頭を下げた。


「こんばんは、宗谷さん。バイト帰りですか?」


「うん、まあね」

 彼は曖昧に頷くと。

「君こそ、こんな時間に、どうしたの?」


「サンドイッチが美味しいと評判な喫茶店があるんですよ」と、瑞穂は喫茶店の看板を指さし「丁度、学校からの帰り道なんで、夕食を作るのが億劫なときとかは、いつもその喫茶店でこの時間まで過ごしているんです。どうせ、家に帰っても誰もいませんからね」


 自分の働いている店の料理が美味しいと、それだけの理由。予期せぬ答えに、宗谷は思わず苦笑いを浮かべ頭を掻いた。しかし、すぐに考え直し、彼は眉を潜めてみせた。腕時計を瑞穂へ見せ、文字盤を指差しながら言う。時計は午後九時を少し過ぎた辺りを指し示していた。


「小学生がこんな時間まで出歩いてたら危ないよ」


 その瞬間、瑞穂は面食らったように、目を見開いた。


「私、中学生ですよ」


 彼女は呟いた。言い方は素っ気なかったが、その表情は険しく、円らで澄んだ瞳が宗谷を睨み付けていた。もっとも、瑞穂の表情は以前に見せた異様なものとは比べ物にならないほど子供っぽく、宗谷はたじろぎはしたが、せいぜい子犬に吠えられた程度にしか感じなかった。


 それよりも、瑞穂が中学生だということに宗谷は驚いていた。低い背と幼い顔立ちから小学生だと、それも低学年あたりかと思いこんでいた。


「そうなんだ。ごめんね。てっきり――」


「まあ、私は背が低いし、私服の学校なのでよく間違われるんです。気にしないで下さい」


 そう言ってはいるものの、瑞穂の表情は浮かないままだった。宗谷は目の前に立っている少女を見下ろし、その表情をつぶさに観察してみた。不服そうに頬を膨らませた彼女の面持ちは、いかにも子供らしく幼げで、とても中学生の浮かべる表情には見えなかった。


 結局、話を訊いてみれば何のことはなかった。瑞穂は学校からの帰りに、美味しいと評判だという喫茶店のサンドイッチを夕食として食べに来ていただけだった。来店する時間が遅いのは、彼女は中学校で剣道部に在籍しており、その部活動が毎日遅くまであるから。帰るのが遅いのは、彼女には両親がいないため、早く家に帰る必要が無かった。ただ、それだけのこと。


 やはり自分の思い過ごしだったのだ。胸の奥にある若干の燻りが、警戒心のようなものが完全に消えたわけでは無かったが、彼はもう考えないことにした。結局は、すべて偶然に過ぎないのだと、自分に言い聞かせた。


「それより宗谷さん。せっかくですから、一緒に帰りましょうよ」


 すこし機嫌を直したのか、瑞穂は僅かに口許を緩め、突っ立っている宗谷の手をとった。


「そうだね」

 と、瑞穂に引かれるままに歩き始めたとき、宗谷は彼女の左足の脹ら脛に、刃物で切ったような傷があることに気付いた。傷は殆どが靴下に隠れていたが、見える部分の状態から考えると相当深い傷だろう。白くきめ細かな肌に刻まれている黒ずんだ傷痕は、まるで異物のように浮いていた。


「どうしたの、その傷。痛くないの?」


 手をつないで瑞穂と並んで歩きながら、宗谷は何気なく訊いてみた。瑞穂は横目で宗谷の方を見やると、戯けたように顔を顰めてみせた。


「昨日、やっちゃたんです。寝相が悪いから、寝ている間に家具に足を引っかけちゃって」


 そういうこともあるだろう。彼は、いつだったか寝ぼけて、枕元にあった机の脚に思い切り頭をぶつけてしまったことを思い出した。だから、それほど深く考えず彼女へと頷いた。


「そりゃ、災難だったね」


 ●●


 他愛のない会話をしているうちに街の駅に着いた。街の駅前は、ただでさえ明るい夜の街の中でも一際、眩く鮮烈な光に包まれていた。百貨店や大型の家電量販店が犇めくように建ち並び、溢れんばかりの無数の人々が、慌ただしく行き来している。宗谷は人混みに揉まれながらも、瑞穂とはぐれてしまわないよう、彼女の小さな手を強く握り締めた。その時だった。


「あれは――」


 思わず、宗谷は声に出していた。人混みの隙間から、知っている人物が見えたからだった。宗谷は瑞穂を庇うようにしながら人混みから抜け出すと、その人物に声を掛けた。


「そんなところで、どうしたんだ? 睦月」


 その人物は、池田睦月は即座に振り向いてきた。その顔は蒼白で、額には汗が浮いている。ひどく動揺しているようだった。睦月は、相手が宗谷であることを認めると同時に溜息をつくと、低く押し殺した声で呟いた。


「なんだ、宗谷か。脅かすなよ」


「いや、ごめん。ところで、どうしたんだ。誰かと待ち合わせ?」


 宗谷には、睦月が誰かを探しているように見えた。そういえば数日前にも同じ時刻、同じ場所で睦月に会ったことを、彼は思い出していた。もしかして、毎日ここに来ているのだろうか。


「別に――なんでもない。お前には関係のないことだよ」


 いつもと違う、そっけない態度だった。宗谷は、睦月の突き放すような言葉に戸惑った。もしかして、以前の桜花の怪我のことを、まだ何か疑ってでもいるのだろうか。それとも、いくら友人とはいえ、立ち入ったことを訊いてしまったのか。どうも、よくわからない。


「それより、その子は――」

 睦月は、宗谷と手をつないでいる小さな女の子へ、瑞穂へ視線を向けると。

「宗谷の彼女か?」


「まさか」

 と宗谷は吹き出した。と同時に瑞穂の指先が痙攣したように、ぴくりと動いたのを感じた。見ると彼女は恥ずかしげに俯いている。どうかしたのかと思いつつ、宗谷は答えた。


「この子は、アパートの隣の部屋に住んでる子。お隣さんだよ」


「そうか」

 睦月はそれだけ言うと、興味なさげに宗谷達から視線を離した。その仕種もやはり、普段の彼とは違っていた。彼は、何か別のことを頻りに気にしているように見えた。宗谷は話しながら、目の前にいる人物が、睦月の姿をした別の誰かに思えてならなかった。


 いったい、どうしたんだよ──そう言いかけたとき、宗谷はすぐ側の道路脇に、誰かが蹲っているのに気付いた。宗谷は言葉を飲み込み、眼を凝らしてそれを見つめた。


 蹲っているのは小学生くらいの女の子だった。そして、その身体は、半透明だった。

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