疑問
小さな悲鳴が狭い調理場に響き渡った。宗谷は突然の声に驚き、慌てて視線を動かす。見ると、バイト仲間の少女が肩を震わせて立ち尽くしていた。
「み、御影くん――」
彼女は驚いた様子で、宗谷の名を口にしていた。それだけではなく、彼女は宗谷を食い入るように見つめてもいた。いや、宗谷自身を見ていたわけではなかった。彼の手元を、そこにある調理器から立ち上っている黒い煙を、大きく見開かれた瞳で見つめていた。
宗谷は黒煙に気付き、はっと我に返る。すぐさま手元のスイッチを捻り、調理器の火を消す。しかし、調理器の上で焼かれていたソーセージは、すでに原形を止めぬ程に炭化していた。焦げた臭いが調理場に充満する。宗谷と少女は、その臭いに思わず顔を顰めた。
「あーあ。やっちゃったね」
少女は黒煙に手で鼻と口許を覆いながら、肩を竦めて見せた。
「でも、どうしたの? 御影くんが、そんなミスするなんてさ」
「いや、ちょっと考え事してたんだ。気をつけるよ」
「ふうん」
少女はすこし眉を寄せ、心配そうに。
「最近、やっと以前の調子が戻ってきたと思ったのに。やっぱり、まだちょっと様子が変だね。そう言えば、マスターさんも心配してたよ」
そう呟き、ついでのようにオーダーを宗谷へと告げ、少女は慌ただしく料理場を出ていった。
ふう、と大きな溜息をつくと、宗谷は焦げきった黒いソーセージを取りだした。
宗谷は毎日、学校が終わってから夜の九時までの時間、この喫茶店でアルバイトをしていた。どうにも野暮ったい雰囲気の店だったが、比較的時給が高く、マスターの人柄も良かったので、彼はここでのバイトを気に入っていた。この古き良き雰囲気に惹かれるんだよ、とはマスターの弁で、事実、その野暮ったさの割に客は多く、宗谷は常に忙しかった。
遅れた分を取り戻そうと、宗谷は急いで調理に取りかかる。だが、彼の心は別の所にあった。意識と思考は身体を離れ、ふらふら宙を漂っている。昨日の夜のことがずっと気になっていた。
あの時、千早は、自身の存在し続ける理由を、死んでしまった原因を話そうとしていた。そして、彼女は思わず口走っていた。自分は殺された、と。
誰が、なぜ、千早を殺したのか。彼女が殺される直前に交わした約束とは何なのか。その約束は、どういう理由で彼女を存在させ続けているのか。
千早に話の続きを聞こうにも、彼女は「やっと動けるようになったので。少し出かけてきます」と言って、そのまま、どこかへと出かけてしまった。急にどうしたの、と聞いても、「ちょっと、用事を思い出したんです」としか答えてくれなかった。
これまでにも、千早が夜の九時頃になると急に一人で出掛けてしまうことは何度かあった。しかし、そもそも霊である彼女が、たった一人で、そんな夜に、どこへ出かけるというのだろうか。やっと動けるようになったから、急に用事を思い出したから、と言う理由は宗谷には、いかにも取って付けたような言い訳に聞こえてならなかった。
そして瑞穂のことも気になっていた。昨夜の大きな音。あれは寝ぼけて壁を蹴ったなどというレベルの音では無かった。煉瓦のような重い何かを叩きつけるか、身体の大きな人間が全力で体当たりでもしなければ、いくら安普請なアパートとはいえ、あれほどの音は出ないだろう。
それだけではない。彼女の部屋の壁に刻まれた、刃物で抉ったような無数の傷。あれは一体、何だったのか。さらに、ドアを閉める直前に見た、感情の全く見えない仮面のような、しかし狂気すら感じさせる冷たく鋭い瑞穂の表情。もはや、子供の見せる表情ではありえなかった。
宗谷には解らないことだらけだった。だから、素早く玉葱を刻みながらも、卵とソーセージを焼いている最中も、仕事に費やされている残り半分の容量で彼は考え続けていた。
「あの子、また来てるな」
マスターが調理場に入ってくるなり、独り言のように呟いた。
「あの子って、誰です?」
上がりの時間が近付いていたので、壁に掛かった時計をちらりと見つつ、宗谷は訊いた。
「あの子だよ、ほら」
と、マスターはその相手に気付かれないよう、何気なく目配せをした。
宗谷は調理台の隙間から、カウンター越しにフロアを覗き込む。そして、彼は息を呑んだ。
それは小さな少女。青いツーテールの女の子。塚本瑞穂だった。食べかけのサンドイッチとレモンティーの乗ったトレイを前に、彼女は椅子に腰掛けて、文庫本を読んでいた。
「ここ最近、いつもこの時間になると来てるんだよ。ほぼ毎日ね。君は調理場に詰めてもらってるから気付かなかっただろうけど。子供が、こんな時間に独りとは、おかしいと思ってね」
「そうですか? 塾からの帰りとか、最近の子供は、そういうの普通ですよ」
言いながら、宗谷は動揺が顔にあらわれていないか、鏡か何かで確かめたい気分だった。
「そうかな。俺が古いだけかな」
マスターは納得がいかないようにぶつぶつ呟いていたが、サラリーマン風の男性が来店し、カウンターに座ったことに気付くと、さっと注文を訊きに行ってしまった。
“塾からの帰りとか、最近の子供は、そういうの普通ですよ”自分の言葉を、宗谷は反芻した。自分で言いながら、彼はその言葉に納得できなかった。瑞穂が自分の働く店に通っている。毎日、自分が働いている時間に合わせて。それは偶然にしては出来過ぎているのではないか。
指が震えていることに気付いた。握り締められた掌は汗で僅かに濡れている。宗谷は、改めて思い知った。初めて出会ってから、そこであの表情を、瑞穂の鋭く狂気を帯びた表情を見てしまってから、すっと心の奥底で、彼女を警戒していたのだ、と。
宗谷は軽く首を振り、指の震えを堪えた。あんな小さな女の子の、何を怪しんで恐れているんだ。ふと、宗谷はおかしく思い、そのおかしさを紛らわすために、自分の頬をさすった。
警戒することなんか何も無いんだ。そんなにあの子のことが気になるなら、確かめてみればいいんじゃないか。案外、普通の答えが返ってくるさ。この近くに通っている塾があるんですよ、とか、親戚の家が、友達の家があるんですよ、って。そうに違いないさ。
しかし宗谷の考えとは裏腹に、彼の頬は血の気が引いていた。頬をさすった指先が、その冷たさに驚いたかのように、再び震えだしていた。
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