ここにいる理由
宗谷はそこまで呟き、押し黙った。彼は気付いたのだ。千早が思わず、彼女自身の過去にあった、とても大事なことの一端を口走ったことに。
俯いたままでいる千早の半透明な姿を、宗谷は凝視した。この子は、生前に何をしていたのか。なぜ、こんなに幼くして、暗く冷たい路地裏で独り死んでしまったのか。彼女と出会ってから、あえて考えないように、胸の奥に閉じこめていた疑問が、少しずつ蘇り、脳裏を迸る。
あ、と小さな声を上げ、千早は頭を垂れたまま、上目遣いに宗谷を見やった。眼があった。彼女も、自分が過去のことを、生前のことを思わず喋ってしまったことに気付いたのだろう。その顔には、僅かに苦笑いが浮かんでいた。他愛ない悪戯が見つかった直後の、子供のような。
お互いに見つめ合い、沈黙したまま、暫く時が過ぎた。
「あの――」
沈黙を破ったのは、千早の遠慮がちな声だった。
「訊かないんですね」
「何を」
問いの意味はわかっていたが、わざとはぐらかすように。
「何を訊かないって?」
「あたしが、どうして死んだのか。どうしてあんな誰もいない、棄てられたような場所で、こんな格好をして、死んでしまったのか、ということを」
「それを訊いたら、君が消えてしまうかもしれないと思った。君が消えてしまうのを怖れていたから、生前の君のこと、過去のこと、ずっと考えないようにしてきた。今だってそうだ」
宗谷の脳裏を、今まで出会った沢山の残留思念の顔が過ぎった。消えていく最中、助けを求める必死の形相。狂った叫き。消える直前に漏れ聞こえる、消えたくないという嗚咽。
この子にだけは、そんな思いをさせたくない。無惨に消えていく千早を見たくなど無い。それに彼女が消えてしまえば、残留思念は真の意味で“消えていくだけの存在”になってしまう。残留思念が視えてしまう宗谷とって、それはあまりにも救いの無いことだから。
「だから、訊かないんですね」
千早は顔を上げた。
「でも、大丈夫ですよ。それに――」
「それに?」
宗谷は小首傾げて聞き返した。ふと見ると、千早の顔は僅かに翳りを帯びていた。
「このまま消えてしまいたいとも思っていた時期がありました。今でも、以前ほどではないにしろ、心の奥底でそう思ってるのかもしれません。消えることができるなら、これほど楽なことは無いから。消えるときには、死んだときのような痛みも、哀しみもないはずだから」
予想だにしなかった千早の言葉に、宗谷は咄嗟に言葉が出なかった。呆然としたまま黙り込む。そんな彼の表情を見つめ、千早は哀しげに瞳を細めると、肩を竦めてみせた。
「何週間も、何ヶ月も――あ、いえ。その、ずっと凍りついた時の中で、身体の無い意識だけが存在し続けるのは、とっても辛いことなんですよ。確かに、死んでしまった直後は死にたくないって、消えたくないって、そう思いました。だけど、時が経つにつれて、自分が既に死んでいるってことがはっきりとしてくると、逆に消えてしまいたいと思うようになる。
なぜなら、もう死んでいることが解りきっているから。もう、生きているうちにやりたかったことは、なにもできないから。本当に、何もできないんです。
それにあたしは、宗谷さんに話しかけてもらえるまで、死の直前に感じた恐怖や絶望や悲しみのまま固定されていて、動くこともできなかった。移動することも、別の方向を見ることも、目を閉じることすらできない。ごみ捨て場に横たわった状態のままで、僅かに見えるのは空だけでした。朝と昼と夜を単調に繰り返す空を、ただただ眺め続けることしかできなかった。
それなのにいつまでたっても意識は消えない。感情に雁字搦めにされて何もできないのに、意識だけは嫌になるほど、はっきりと残っている。それは、辛いことだと思いませんか?」
いつしか、千早は涙声になっていた。彼女は宗谷の胸元へと縋り付いた。宗谷は小さく頷くと、彼女を抱き寄せた。実体が無いので触れることはできないが、暖かな何かを感じた。
「でも、君自身は消えることを望んですらいるのに、消えていない。こうして存在し続けている。僕が出会った他の残留思念は、出会ってすぐに、消えてしまうのに。なぜだろう」
宗谷が不思議そうに呟くと、千早はくぐもった声で応えた。
「あたしが、“約束”をしてしまったからだと思います」
「約束?」
「前に言いましたよね。残留思念は、死の直前に抱いた強い想いや未練を核とした、意識だけの存在だって。あたしにとっての強い想いというのが、つまりあたしの核となっているのが、その“約束”なんでしょうね。あたしが“約束”を果たせていないから、それが未練として残っているから、こうしてあたしは存在し続けて、消えることができないんです」
宗谷が出会った残留思念の多くは、「死にたくない」という想いを核としていたのだろう。だから“自分は死んでいる”と認識した途端に消えた。だが、千早は根本から違っている。
「その“約束”っていうのは、一体――」
千早は躊躇いがちに眼を伏せた。話すべきか、話さぬべきか、迷っているかのようだった。
「あたしが殺される直前のことです」
「君が――殺された?」
宗谷は思わず、驚きの声を上げた。彼女は間違いなく殺されたと言った。死んだ、ではなく。殺された、と。予期せぬ彼女の言葉に、彼の思考は混乱した。
その時だった。隣の部屋から物凄い音が響いた。まるで、壁に重たい物を投げつけたような、叩きつけたような、激しく重い音だった。突然の騒音が、二人の声を掻き消した。
「な、なんですか、今の音は」
突然の音に動揺を隠しきれず、千早は小刻みに肩を震わせながら、壁の方へと振り向いた。
「瑞穂ちゃんの部屋からだ」
宗谷は反射的に立ち上がる。
「様子を見に行ってくるよ」
●●
アパートの廊下は、先程の凄まじい物音など無かったかのように静まり返っていた。他の住人が出てくる様子はなかった。音がしたと思われる瑞穂の部屋は二階の一番端にあるので、音が聞こえたのは隣にある宗谷の部屋だけなのだろうか。
宗谷は、瑞穂の部屋のチャイムを何度も押しながら、彼女の冗談めかした言葉を思い出していた。危ない人に襲われたときは壁を思いっきり叩いて、宗谷さんに助けを求めますから、と。胸騒ぎがする。あの子は、大丈夫だろうか。あんな大きな音がするほど、何があったのか。
とたとたと、ドアの向こうから足音が聞こえた。瑞穂の足音だろうか、それとも別の誰かか。宗谷はチャイムから指を離し、ドアから半歩離れると、両手を握り締めて身構えた。
ドアから顔を覗かせたのは、パジャマを着た、背の低い少女――瑞穂だった。彼女は眠そうに目を擦りながら、こちらを見上げた。視線がぶつかる。その一瞬、しまった、といった感じに瑞穂は表情を強張らせた。
「すみませんでした」
と、出し抜けに瑞穂は言った。
「すみませんって、どういうこと? それに、さっきの音は――」
「わたし、寝相が悪いんですよ」
瑞穂は恥ずかしげに頭を掻きながら。
「だから、たぶん寝ている間に、壁を蹴ってしまったんですね。本当に、すみませんでした」
妙に早口で、弁明するかのような口調だった。宗谷は、瑞穂が無事だったことに胸を撫で下ろしながらも、彼女の言い回しに不自然なものを感じていた。この子は何かを隠しているのではないか。彼女の表情が一瞬とはいえ強張ったのも、気付かれては都合の悪い何かがあったからではないだろうか。
宗谷は釈然としない表情まま、じっと瑞穂を見つめた。しかし、いつまでも拘っているわけにはいかなかった。パジャマ姿の瑞穂は、寒そうに肩を震わせている。仕方なく、彼は呟いた。
「まあ、何事も無くて、よかったよ」
「これからは気をつけますね。それじゃ、おやすみなさい」
瑞穂はそう言い丁寧に頭を下げると、再び眠たげに眼を擦り、ドアノブに手をかけた。
その時、宗谷は見てしまった。瑞穂が部屋のドアを閉め切る直前、閉まりかけたドアの隙間から、彼女の部屋の中が僅かに覗いたのだった。
見えたのは、彼女の部屋の壁だった。壁一面に、鋭い何かで擦ったような、抉ったような傷が刻み付けられていた。普通ではない、狂気でも帯びているかのような夥しい数の傷だった。
宗谷は思わず、瑞穂へと声を話しかけようと口を開いた。だが声は出なかった。宗谷は押し黙っていた。瑞穂の表情が、目つきが、子供とは思えないほどに鋭く変貌していることに気付いたのだ。それは彼女が以前に見せた殺意の形相に違いなかった。彼はふと血塗れた刃物を連想した。鮮血に染まり、光を反射して紅く生々しい輝きを見せる、ナイフのようだと。
そのままドアは閉じられた。ガチャリという機械的な音だけが、二人の間を断ち切るかのように、静まり返った夜空の下に虚しく響いた。
宗谷は背筋が凍るような戦慄を覚え、しばらくの間、瑞穂の部屋の前で、じっと立ち尽くしていた。彼女の部屋の壁に刻まれた、狂ったような傷模様に、その直後に目の当たりにした、おおよそ子供とは思えない彼女の鋭く狂気すら感じられる形相に、彼は動揺しきっていた。
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