青い髪の少女

 数日後、宗谷がバイトから帰ると、アパートの廊下に、いくつかの段ボールが積まれていた。


 誰かが引っ越してきたのだろうか、と宗谷は思った。アパートは二階建てで、ぞれぞれの階には部屋が四つある。二階の奥から数えて二番目の部屋に宗谷は住んでいるのだが、段ボールの積まれていたのは、その隣、一番奥の部屋の前だった。


 以前、この部屋に入居していた若い男性は、数日前、確か宗谷が千早と出会った翌日に、何の前触れもなく引っ越してしまっていた。宗谷が理由を訊くと、知り合いが家を譲ってくれたから、という突拍子もない答えが返ってきた。宗谷はそんなことがあり得るのかと、疑問に思っていたが、一週間も経たずに新しい入居者が引っ越してきたとなると、本当なのだろう。


「宗谷さん、大変です。大変ですよ!」


 部屋に戻ると、いきなり千早が声をあげて駆け寄ってきた。千早は、この数日で、すっかり宗谷との暮らしに馴れたようだった。出会った頃の大人しさは影を潜め、千早は意外にも明るく、ややあっけらかんとした性格のようだった。親と離れて暮らし、家では話し相手のいなかった宗谷は、千早の性格を好ましく思った。思っていたよりも、明るい子で良かった、と。


 しかし時折、千早が夜空を眺めながら、切なく深い哀しみの表情を浮かべていることを、宗谷は知っていた。そんな表情を浮かべる夜は、彼女は決まって一人で何処かへ出掛けていることも。悲しみを紛らわせるためなのか、それとも他に理由があるのかは解らない。だが宗谷は、彼女の哀しみの原因も、出掛ける先もその理由も訊かなかった。訊いたら、その途端、彼女まで消えてしまいそうな気がしたから。


「聞いてますか、宗谷さん。大変なんですよ」


 矢継ぎ早に、千早は捲し立てる。宗谷は胸元まで迫った千早の顔を見下ろした。僅かに怯え、困ったような顔をしてはいたが、表情から鑑みるに、言うほど大したことでは無さそうだった。


「どうしたの?」

 宗谷は靴を脱ぎ、机の横に鞄を置く。


「変な子供が、何度も何度も、この部屋のチャイムを鳴らすんです。切羽詰まったような顔で、悪戯じゃなさそうでした。あんまり頻繁に鳴らすので、ちょっと怖くなっちゃいましたよ」


「変な子供って、どんな感じの子供だったの?」


 千早は考え込むように目を閉じ、こめかみの辺りを指でさする。


「見た目は変じゃないです。どちらかというと可愛い感じの女の子で、青っぽい髪を両サイドで結って、ツーテールにしていたのが特徴ですかね。年齢は、あたしよりも少し年下です。小学校の低学年くらいでしょうか。背が低かったですから」


「誰だろう、それは――」


 記憶を探る。宗谷には兄弟はいなかったし、親戚や知人にも思い当たる人物はいない。


 考えていると、部屋のチャイムが鳴った。宗谷は玄関へ戻ると、覗き穴から来訪者の様子を伺った。千早の言ったとおり、小学生ほどの女の子が突っ立っていた。


 整った顔立ちの、可愛らしい女の子だった。青い髪を両サイドで結ってツーテールにしているが、その子供っぽい髪型のためか、それとも背が低いためか、とても幼く見えた。肌は千早と同じくらい白く艶やかで、血色も良い。ただ身体つきは細く、少し頼りなさげだった。


 女の子は、早く出てこい、とでも言わんばかりの苛立った表情を隠そうともせず、焦れたように足を小刻みに踏み鳴らしていた。千早の言うように、切羽詰まっているかのようだった。


 宗谷はドアを開き、隙間から顔を出し相手を見下ろす。同時に女の子も顔を上げた。精巧で愛らしい微笑み、先程までの苛立ち不満を微塵も感じさせぬ表情で、彼の瞳を覗き込んでいる。


 少女の表情の変化に、宗谷は呆れながらも感心してしまった。ドアを開け、そこから顔を覗かせるまでの一瞬のうちに、ここまで隙のない笑顔を取り繕うことができるものなのか、と。


「君は――?」

 訊くと同時に彼は驚いた。何気なく発したその一言が、自分でも考えられぬ程に警戒心を帯び、尖っていたことに気付いたから。女の子は笑みを浮かべたまま瞳を見開き小首を傾げた。表情にこそ顕れないが彼女もまた、宗谷の訝しげな問いに驚いているのだろうか。


 相手はまだ年端のいかぬ女の子なのだ。それなのに、目の前の子供に対して何を警戒しているのか、自分でもよく解らなかった。天使の微笑みを自在に操るのは、なにもこの子に限ったことではない。幼い子供は、誰でもこの程度の狡猾さは持ち合わせているに違いないのだから。


 だが、得体の知れない胸騒ぎは、確実に宗谷の中で燻り始めていた。彼の本能が、不可解な警告を発していたのだ。この子は普通ではない。“危険である”と。まるで宗谷の霊を視る能力が、彼女から発せられる何かに反応しているかのように。霊のように明確に視えたり、聴こえたりするわけでもないのに、言葉にできぬ猜疑と不安の心が、抗いようも無く膨らんでいく。


「突然、すみません。わたし今日から隣の部屋に引っ越してきました、塚本瑞穂といいます」


 幼い顔つきに似合わぬ大人びた口調で言い、その少女は深々と頭を下げた。


 どうやら瑞穂と名乗った少女は、引越の挨拶に来たようだった。彼女の声を聞いた途端、宗谷の中に燻っていた警戒心が、急激に萎んでいった。なんだ、声を聞けばただの子供じゃないか、と。


 いつの間にか、彼女から感じていた普通ではない“何か”も消えていた。宗谷は、こんなに小さな子供の何をそんなに危ぶんでいたのかと、我ながらおかしくなった。

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