救い

「時間が、凍りつく?」


 女の子の言葉の意味がわからず、宗谷は小首を傾げる。


「もちろん喩えです。死んでしまってから、あたしの意識は、死の直前の恐怖や絶望とかいったものに固定されてしまっていた。だからあの場所から動くことも、なにもできなかった。

 でも、そんなとき宗谷さんは、あたしに話しかけてくれた。そしてあたしが、宗谷さんの問いかけに僅かながらも反応できたから、そこで固定されていた意識が上書きされた。凍りついた私の時間は再び動き出すことができた。だからその、つまりは宗谷さんのおかげなんです」


 女の子の説明は要領を得ず、宗谷は何度か繰り返し聞かなければならなかった。


 彼女が言うには、自分とは――宗谷に視えてしまう“霊”とは、“死んだヒトの意識そのもの”なのだそうだ。通常であれば、ヒトは脳という認識器官を失えば、即ち死んでしまえば、その意識もまた、すぐに消えてしまう。だが、死の直前に強い想いや未練を抱いていた場合には、その強い想いや未練を核として、“意識だけの存在”となることがあるのだという。


 人間の意識というものは、映画のフィルムを再生するように、常に上書きされているものなのだそうだ。しかし彼女の場合は、死の直前に感じた恐怖と絶望があまりにも強すぎたため、死の直前のその一コマ部分が焼き付いて、その前のコマである哀しみとの間を、ずっと往復して、何度も何度も繰り返していた。それが、意識が固定されたということらしいのだが、宗谷が声を掛けたことで、焼き付いたコマが上書きされ、正常に戻ったのだという。


 宗谷は、初めて女の子と出会ったときのことを思い起こす。彼女の瞳、物憂げに潤んでいながらも明確な意志を持っていたそれが突然、死んだ魚のような眼へと変貌してしまったこと。その時、凍りついてしまったかのように、彼女のすべての動きが止まってしまったこと。それこそが彼女の言う、意識が固定された状態、即ち時間が凍りついているということなのだろう。


 細かい理屈はともかく、宗谷は彼女の言葉を大まかには理解した。だが、同時に疑問も抱いた。何故、子供がそんな小難しいことを知っているのか。いくら自分自身が霊であると知っているのだとしても。と、そこまで考えたところで、彼は先程抱いた違和感の正体に気付いた。


「ちょっと待って」

 なおも説明を続けようとする女の子を、宗谷は慌てて手で制した。

「君は知っている、わかっているんだね? 自分が、もう死んでしまっていることを」


 言ってから、宗谷は拳を握り締め、女の子の姿を凝視した。


 先程の彼女の説明が正しいのならば、今まで出会った霊達は宗谷の推測どおり、死にたくないという強い想いを核として、意識だけを存在させていたことになるのだろう。だから、それらの霊は自分が死んでいると知ったその瞬間、消えてしまったのだ。存在の拠り所となる想いが、意味を成さなくなったから。


 だが、今、目の前に座っている女の子は、自分が死んでいることを知っている。彼女は今までの霊とは明らかに違っている。宗谷は軽く息を吐き、拳の力を緩めた。掌は汗に濡れていた。


 彼女は頷く。きょとんとし、なぜそんな問い掛けをされたのか訳が解らないといった様子で。


「それは一体、いつから――」

 重ねて、宗谷は聞く。


「もう、ずっと以前から」

 消え入りそうな呟き声で、女の子は応えた。


 だから知っている、悟っているのだろう、と宗谷は気付いた。凍り付いた長い時間の中でずっと、自分が何なのか、なぜ死んでいるのに意識が存在し続けているのか、と考えていたから。


「つまり――」

 ガラス細工を扱うかのように慎重に、彼は訊ねた

「君は、消えないんだね?」


「わかりません。いつか、あたしも消えるかもしれない。今は、まだ消えそうにありませんが」

 と彼女は言い、怪訝そうに眉を潜めた。

「でもなんで、そんな変なこと訊くんですか?」


 宗谷は、これまでのことをすべて女の子へと打ち明けた。突然、霊が見えるようになった戸惑い。死にたくないと叫ぶ者。やがて消えていく者。消えたくないという無惨な叫び声。彼が話している間、女の子はパジャマの端を握り締め、じっと聞き入っていた。


「だから君のような霊がいてくれて、僕は本当に救われた、と思う」


 霊を知覚できるようになってから、宗谷の精神は悲痛な叫びや呻きに削られて、少しずつヒビ割れていた。疲弊した彼にとって、女の子の存在は救いに違いなかった。


 それは彼女が“消えない霊”だから。彼女が、生きていた頃に持っていただろう大切なものを失っていなかったから。彼女のような霊がちゃんとあることを、“霊”が絶望に満ちた、ほんの一欠片の救いも許されない存在、というわけでは無いということを知ることができたから。


「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、ちょっと恥ずかしいような気もしますけど」


「君、名前は?」宗谷は訊いた。


「私の名前? あの、羽衣――羽衣千早です」

 女の子は、そう名乗った。


「羽衣さん」

 宗谷は少し身を乗り出し

「君が良ければ、ずっと、ここに居ても良いんだよ?」


 この女の子が――羽衣千早がそばにいれば、この先に何度も救われない霊に出会ったとしても、正気を保っていられるような気がした。彼女が、優しい子だからというだけでなく、霊である彼女であれば、霊が見えることの苦しみも、他の人よりは理解してくれるだろうから。


「え――?」

 千早は驚いたように、大きく眼を見開いた。

「良いんですか?」


「君みたいな女の子を今更、あんな路地裏に帰すわけにもいかないだろうし。それに、どうやら僕は疲れてるみたいだからさ。君のような、僕の“能力”を理解してくれる話し相手が、相談相手がいないと、パンクしてしまいそうなんだ。他の人に、こんな話できないからさ」


 いつしか千早は眼に涙を溜めていた。それでも、彼女は何とか笑顔をつくって呟いた。


「宗谷さん、優しいんですね――ありがとう、ございます」


 頷いた千早の頬を雫が伝った。少女は泣いていた。この子は何故、こんなことで泣いているのだろうかと不思議に思い戸惑いつつ、涙を流し続ける千早の姿を、彼はじっと見つめていた。


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