凍りついた時計の針は動き出す
その子は、走っていた。何も見えない、深く重い闇の中を走り続けていた。その子には、これが何の闇なのかわからなかった。夜の闇なのか。それとも、明かりを完全に遮断された部屋の闇なのか。辺りは静寂に包まれ、自身の足音すら聞こえない。その子は考えた。ここは、どこなんだ、と。自分は、何をしているんだ、と。
走っていると、視線の彼方に光が見えた。その子は、既視感を覚えた。その光を、どこかで見たことがあったから。砂粒よりも遥かに小さく、しかし鮮烈な輝きを放つ、光の粒子を。
光が迫ってきた。光は一つではなかった。無数の光が地平線から流れる様は、まるで流星群のようだった。その子は、光の帯を見つめた。だが、やがて、光の中の一つが、こちらへと迫ってきていることに気付いた。その子は立ち止まろうとした。だが、走り続ける足は止まらず、その子は光へと流星へと突き進むことしかできなかった。
流星が眼前に迫り、その子は恐怖に耐えきれず悲鳴を上げた。次の瞬間、流星がその子を貫く。腑が溶けてしまったかのような熱さと痛みが、身体の芯から迸った。
その子は、苦痛にのたうった。黒い大地の上に四肢を放り出すようにして横たわり、もんどりうちながらも、その子は自分の身体に、自分のものではない異物のようなものが入り込み、そこから何かが漲ってくるのを感じていた。
●●
宗谷は布団から飛び起きた。その拍子に枕元に置いていた時計が倒れた。冷たい金属音が誰もいない部屋に響く。彼は荒い息を落ち着かせようと、半身を起こしたまま深く息を吸った。
パジャマだけでなく布団までもが、彼の汗でぐっしょりと濡れていた。掌で首筋や頬の辺りを撫でると、火照っている。実際、身体の芯が灼けてでもいるかのように熱かった。まるで、目覚める直前に見ていた夢のようだと、彼は思った。
また同じ夢を見た。闇の中で流星に貫かれる夢。妙に生々しい感覚。何かの暗示のような夢。
もう何回目だろう。宗谷は倒れた時計を元に戻しながら考えた。もう二回や三回ではない。特にここ数日は一日おきに、この夢を見ているのではないだろうか。一体、なぜこんな夢を見ているのだろう。それは霊が知覚できるようになったことと、何か関係があるのだろうか。
宗谷は洗面台に立った。鏡に映った自分の顔を見つめる。彼の顔は湯気が立ち上っていそうなほどに上気し、紅くなっていた。眠気の残った意識の中で、彼は自分の顔をぼんやりと眺めた。目覚めたときに勢い良く吸い込んでしまった息を、まるで溜息のようにして吐き出す。
「大丈夫ですか――?」
すぐ背後から、女の子の声がした。
宗谷の思考が止まった。あり得ないことが起きていたから。この部屋には、アパートの二〇三号室には、宗谷以外は誰も住んでいないのだから。彼は息を呑み、鏡を凝視した。そこに映りこんでいるはずの、自身の背後に立っている筈の、何者かの様子を伺う。
あの白い少女が、立ち尽くしていた。パジャマを着た、女の子の霊。小首を傾げ、心配げな面持ちで、こちらを、宗谷の方をじっと見つめている。
「どうして、君がここに?」
訊きながら、宗谷は女の子へと向き直った。女の子は驚いたように身を強張らせた。
「あの、勝手にお邪魔して、ごめんなさい。昨日、すごく深刻そうな顔をしていたので、大丈夫かなと思って、その、それで心配になって、それでついてきたんです」
「それは、僕のために――?」
宗谷が拍子抜けしたように呟く。女の子は上目遣いで彼を見つめつつ、頷いた。
「御影――宗谷さん、でしたよね。随分、魘されていましたけど、大丈夫ですか?」
「まあ、変な夢は見たけど、そんなに心配してもらうほどのことではないよ」
「そうですか。それなら、よかったです」
女の子は、その妙に大人びた顔とは不釣り合いなほどの無邪気な微笑みを浮かべた。
「君は、一体――」
「あ、あの、お節介でしたか?」
宗谷は首を振った。そうじゃない、そういうことが訊きたいんじゃない、と。彼は女の子へ手招きし、洗面所を出て部屋へと戻った。畳の上に座り、その向かいに彼女を座らせる。
「教えて欲しいんだ。君はどうして、ここに来たの? 一体、何者なの?」
懇願する口調で、彼は訊く。女の子はきょとんとしたが、やがて何かに気づいたのか、そっか、と小声で呟くと、もとの微笑みを浮かべて言った。
「ですよね。宗谷さんにとっては大問題ですよね。家に幽霊みたいなのが来たんですから」
そう言った彼女に、ふと宗谷は強い違和感を覚えた。だが、その違和感が何なのかは解らなかった。無言のまま考えている宗谷の目をしっかと見つめ、彼女は言葉を続けた。
「というより、あたしも驚いているんです。まさか、あたしの姿を視ることができる人がいるなんて、思ってもいませんでしたから。ただ、信じて欲しいのは、宗谷さんについてきたのは、人とは違う宗谷さんの能力を利用しようとか、そういうつもりじゃなくて――あの、本当に心配だっただけなんです。昨日の宗谷さんの様子は、それだけ、ひどいように見えたから」
「でも、どうして、見ず知らずの僕のために――」
釈然としない様子のまま、宗谷は呟く。
「あなたに助けてもらったからです。そのお礼もしたかった」
「僕が、君を助けた?」
言っていることの意味がわからなかった。当惑したように宗谷は眉を潜め、畳の上に行儀良く座っている彼女の、半透明な小さい身体を見つめる。
そうですよ――と女の子は頷いていた。頷いた弾みで、薄いグレーの髪が肩からこぼれた。きめ細やかで美しい髪が、はらはらと揺れる。ふと、宗谷はその揺らぎに切なさにも似た感情を覚えた。いや、彼女の表情そのものが、いつしか憂いを帯びていた。初めて彼女と出会ったときと、豪雨の夜に再会したときと同じ、虚ろでしかし確かに哀しみを帯びた表情。先程までの無邪気な笑みは拭ったように失せ、もはやその名残すらも感じられなかった。
「あたしの時間は――ずっと凍りついていたから」
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