再会

 宗谷は暗くなった街の通りを、ただがむしゃらに駆けた。激しい雨が容赦なく彼の身体を打ちつける。だが喉元までこみ上げてくる悪寒と吐き気を堪えるには、走り続けるしかなかった。


 やがて、宗谷は耐えきれなくなり、その場に蹲った。その途端、宗谷の口から止めどなく吐瀉物が流れ出た。吐いてしまった。だが、胸の中で膨らみ続ける黒々とした感情だけは、吐いても尚、彼の中に留まり続けた。張り付いて固まり、剥がれなくなってしまったガムのように。


 吐瀉物に汚れた口もとを雨に濡れたハンカチで拭い、宗谷は荒い息のまま顔を上げた。ここは、どこなのだろうと、辺りを見回す。ひたすら走ることだけを、吐き気を堪えることだけを考えていたために、道順すら覚えていなかったが、宗谷はこの場所には見覚えがあった。


 ふと見上げた先に、人影が見えた。夜の闇を映しこみ、墨汁のように黒々として見える雨の中で、その人影は仄かな白い光を帯びていた。それは、じっと宗谷を見つめている。


 雨に濡れて視界が霞む。彼は二の腕で顔を擦り雨を振り払い、眼を凝らして人影を見つめた。


「あの――」

 降り注ぐ雨の音に掻き消されそうな、躊躇いがちな声。

「江坂くん、ですか?」


 宗谷が人影の姿を正確に認識するより先に、それは問いかけてきた。朧気に見える白い人影を懸命に見つめ、ずれたピントを少しずつ合わせながら、彼は考えた。江坂って誰だ、と。


 答えずにいると、人影は同じことを再度、宗谷へと問いかけた。女の、それも幼い子供の声だった。彼は顔に張り付いた雨の滴を払い、白い人影の姿を正確に認識した。


 白いパジャマを着た、女の子の霊だった。一週間前に出会ったときと同じ服を着て、同じように横たわり、相変わらず物憂げな瞳で、宗谷を見つめている。


 まだ、消えずにいたんだ。宗谷は驚くよりも先に安堵した。よく見れば、女の子の背後には以前と同じく、ごみの山が透けて見える。ここは一週間前に彼女と出会った場所だったのだ。見覚えのある場所だと思ったが、やはり間違いではなかった。


「人違いじゃないかな」

 宗谷は、女の子へ言った。

「僕は、宗谷。御影宗谷っていうんだ」


 女の子は驚いたように、顔を強張らせる。と同時に、この暗がりでも、豪雨の中でもはっきりと解るほどに、明らかな失望の表情を浮かべた。


 宗谷は、これで彼女が消えてしまうのではと危ぶんだ。だが女の子の身体は薄くなるどころか濃くなり、ぼんやりとした白い光に包まれた。以前、宗谷を誘った、哀しみの光だった。


「そう、ですか」

 残念そうに呟くと、女の子は俯いた。

「そうですよね。江坂くんが、ここにいるはずが無いですよね」


 彼女の言葉は、宗谷にというよりも、自分自身に言い聞かせているかのようだった。やがて、女の子の瞳が涙で潤み始めた。宗谷は慌てて言葉をつないだ。まさかこんな場所で子供を、それも女の子の霊をあやすことになるなど、考えてもいなかった。


「その、江坂くんって子は、君の友達なの?」


「そうです。ただ、江坂くんは――」

 そこまで言うと女の子は、はっとしたように顔を上げた。

「やっぱり、あたしのことが見えるんですね、声が聞こえるんですね」


 宗谷はゆっくりと立ち上がると、頷いて見せた。女の子も静かに半身を起こし、正面から宗谷の顔を、まじまじと見やった。


「どうか、したんですか?」


 女の子は聞いた。心配そうな顔をしていた。潤んだ瞳で見つめられ、宗谷は返答に窮した。


「顔色、悪いです。まるで今にも死んでしまいそうな。以前に会ったときと、全然違います」


 それはそうだろうと、彼は思った。ずっと普通の人間には見えないものを視させられ、聴かされてきたのだ。それは死んだ人間が最期に放った叫びであったり、憂いに満ちた表情であったりするのだから。まだ死んでいない。死にたくない。消えたくない、という声。先程、病院で見た男の子の両親の霊の姿、その叫び、必死な形相が、彼の脳裏を過ぎり、耳奥で木霊する。


 そうなのだ、と彼は考える。それはこの子も同じではないのか。背筋が鋭い刃物をあてがわれたように、ひやりとした。この女の子も結局は、病院で消えた霊達と同じだ。死んでいるのにそれを知らず、死にたくないと願いながら、やがて消えてしまう存在なのではないか。


 宗谷が何も言わずに立ち尽くしているからか、女の子は小首を傾げ訊いた。


「あの――大丈夫ですか?」


 宗谷は答えられなかった。何も、言葉にできなかった。哀しみにも、憐れみにも似た感情だけが、彼の中で渦巻いていた。


「いや、ごめん――」


 絞り出すような声で、ようやく宗谷は言った。彼は俯き、女の子から視線を逸らすと歩き出す。女の子は、彼を呼び止めようとはしなかった。心配げな面持ちのまま、こちらをじっと見つめているのが、彼女の傍らを通り過ぎる間際、僅かに見えた。


 宗谷は、ただ見たくなかっただけ。最初に見た中年の男性のように、病院で見た男の子の両親のように、犇めく無数の霊達のように、死んでいるにも関わらず、死にたくないと無惨に叫び続け、消えたくないと虚しく叫びながらも、消えてしまう。そんな女の子の姿を。


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