消えゆく叫び

 気付いたときには、面会時間をとっくに過ぎていた。夕食を運んできた看護婦に、やんわりと、もう時間であると告げられ、宗谷は桜花の病室をあとにした。


 桜花は名残惜しそうに宗谷を見送っていた。その心細く寂しげな眼差しで見つめられ、宗谷としてもできるだけ怯えている桜花に付き添ってあげたかったが、病院の規則であればしかたがなかったし、いつまたあの触手に襲われるかもわからない状況で、桜花の側にずっといるのは避けた方が良いと思い直した。


 宗谷は施設中央に位置するエレベーターへ向かった。この街で最大規模の病院と呼ばれるだけあって、その廊下の長さは半端でなく白い床は延々と続いている。宗谷は、いつまでも続く廊下に、その無表情で無機質な光景やリノリウムの床と靴底とが奏でる規則正しくも単調な足音に飽きて、ふと窓の外へと視線を移した。


 雨が降っていた。それも土砂降りと言っていいほどの大雨だった。宗谷は思わず溜息をついた。天気予報では雨が降るなどとは言っていなかったから、彼は傘を持ってきてはいなかった。


 天気予報なんて、いい加減だな、などと考えながら歩いていると、彼は窓に自分のものではない、別の顔が映りこんでいることに気付いた。その顔は蒼白で、口をあんぐりと開けたまま一心不乱に宗谷を、いや、目の前のものすべてに見入っているかのように、瞳を見開いていた。


 宗谷は不審に思い立ち止まると、その顔の方へと向き直った。若い女性が、廊下の壁にもたれるように立っている。先程と変わらず。その瞳はじっと宗谷へと向けられていた。


「あの、どうかしましたか?」宗谷は訊いた。


 その瞬間、女性は電撃が走ったように背筋を伸ばし、驚いたように顔を歪めた。


「助けて! 私のことがわかるなら、助けて!」


 いきなり女性は叫んだ。そこで彼は気付いた。この人は霊なのだと。既に死んでいるのだと。その宗谷の考えを裏付けるかのように、よく見れば彼女の身体は透けていた。半透明だった。


 ここは病院なのだ、と彼は思いだした。人の病や傷を治療する場所であるとともに、多くの人が命を終える場所。外を歩いているよりも霊に遭遇する確率はずっと高いに違いなかった。


「死にたくないの。私は、まだ死ぬわけにはいかないのよ!」


 女性は、この病院で死んでしまったのだろう。この若さで寿命ということは無いだろうから、事故か、病気か。いずれにしても宗谷には、彼女の叫びを聞く以外にできることは無かった。宗谷は哀しげに瞳を細め、何かを諦めたように俯き、首を小さく横へと振った。


「ミノルちゃん!」

 と、女性は絶叫した。その視線は、宗谷の少し前の方へと向けられていた。


 宗谷は、女性の見つめている方向を見やった。小さな男の子の姿があった。男の子はソファに座り込み、その幼さに似合わぬ物憂げな瞳で、じっと床を見つめていた。この子が、彼女の言うミノルちゃんなのか、と考えた途端、宗谷は息が詰まるのを感じた。


 彼は気づいてしまったから。この女性は、あの男の子の母親なのではないか、と。


「お母さんを助けて。痛いの。身体中が、痛いの! 痛い、痛い、痛いよぉ!」


 女性は叫び続けた。だがその声は、誰にも聞こえず、宗谷の耳にだけ虚しく響き続けるだけだった。宗谷は胸の中に鉛を詰められたような息苦しさを感じながらも、男の子の様子を伺った。男の子は微動だにしなかった。男の子にもやはり、彼女の声は聞こえていないのだ。


 男の子には表情が無い。意思の見えない瞳は、ぼんやりと見開かれたまま。母親が死んでいることを知っているのか。それとも何かがあったことだけを知らされて茫然としているのか。


「ミノル、お父さんは、ここにいるぞ」


 男の子の後ろから、男性の声が聞こえた。宗谷は身体を前へと動かし、男の子の背後を見た。大柄な男性が、男の子に縋るように床に這い蹲っていた。その言葉からすると、男の子の父親なのだろう。宗谷は、彼が首筋から止めどなく鮮血を滴らせているのに気付いた。眼を凝らすと、彼もまた半透明であることがわかった。


 宗谷は唖然とした。母親だけでなく、父親までもが死んでいた。男の子は、両親を一度に失っていたのだ。事故か、事件か、それとも何かの災害によるものなのか。


「ミノルちゃん! ミノルちゃんを、ひとりぼっちにはしないから。お母さんは、ここにいるから、ミノルちゃん。だから、返事をして、お母さんに気付いて!」


 母親は、我が子の名前を連呼し続けている。彼女には、息子の足元に這い蹲っている父親の姿は、夫の姿は見えてはいないのか。父親もまた、息子に寄り添うだけで、妻であろう女性の姿には目もくれない。霊であろうとも、他の霊の姿や声を認識することはできないようだった。


 宗谷は暗澹とした気分になった。霊の姿は、本当に自分にしか見ることができないのだと思い知ったから。見たくもないものが視えてしまう。それは他の誰にも理解し得ない痛み、自分だけが背負わなければならない苦しみ。誰ともその苦痛を分かち合うことなどできない。


「お母さん、お父さん。なんで――」


 男の子が呟いた。物音と聞き違えてしまいそうなほど、抑揚のない暗い声だった。


「嫌よ。ミノルちゃんを残して、死ぬわけにはいかないよ。やっと、ミノルちゃんが小学校に上がったのに。ミノル、返事をして!」


「ミノル! お父さんの声が聞こえないのか!」


 男の子の両親は、まったく同時に叫んだ。だが、男の子が霊である二人の言葉に応えるはずは無かった。その代わりに、乾ききった呟きを男の子は返した。


「どうして二人とも、死んじゃったの――」


 男の子は言った。その声を聞いた途端、両親の顔に驚きが走った。二人は、お互いが見えていないにも関わらず、まったく同じように口をあんぐりと開き、痙攣したように震え始めた。


「わ、私は――」

 と、動揺しきった声。宗谷には、もはやその声が、母親によるものなのか、父親によるものなのか判断がつかなくなっていた。それ程に二人の声は震え、裏返っていた。


「ま、まだ、死んでない。ミノル、私はまだ死んでない!」


 二人の言葉とは裏腹に、宗谷は彼等の身体が少しずつ薄くなっていることに気付いた。二人も、自身の変化に気付いたのか、怯えに満ちた甲高い悲鳴を上げた。


「まだ、死んでない。私は、まだ死んでない! いや、まさか――まさか本当に――」


 呟くと同時に、二人の姿は急激に薄くなった。もはや宗谷には、眼を凝らさないと見えないほどに両親の姿は透けて、消えかけていた。


 まさか、と宗谷は胸の奥底が冷え、重くなっていくのを感じた。幽霊とは、現世に未練を残したまま成仏できない人の魂である、と聞いたことがある。それが正しいのなら、男の子の一言が、両親の死を認識する呟きが、彼等の姿を変化させる引き金になったのかもしれない。


 もしかして、霊は自分達が死んでいるとは知らず、しかし死にたくないという想いで、その存在を維持しているのか。だから、我が子に自分達が死んでいると知らされ、現実を突き付けられた途端、両親の霊は薄くなった。死にたくないという想いで存在しているのだから、自分が既に死んでいると知ってしまえば、その想いの意味、存在の理由が、無くなってしまうから。


 両親の霊達は、必死に何かを叫いていたが、もはや宗谷には何を言っているのか聞き取ることはできなかった。もはや彼等の叫びは狂っており、言葉にすらなっていなかったのだ。


 誰かが男の子に声をかけていた。若い女性の看護士だった。男の子は力なく頷くと、看護士に差し伸べられた握り締め、導かれるままに歩き出した。小さな背中が、遠ざかっていく。


「お、置いていかないで――ま、まだ消えたくない。消えたくない、消えたくない――」


 両親の叫びが、その一瞬だけ言葉になった。だが、二人の声はそこで途切れた。まるで、湯気が色を失い見えなくなるかのように、すぅっと。何の前触れもなく。


 二人の姿は消えていた。男の子の両親は、宗谷の眼前から完全に消滅していた。


 看護士に手を引かれ、立ち去っていく男の子の後ろ姿を眺めながら、宗谷は呆然と立ち尽くしていた。両親の最期の叫びが、惨めで哀れな叫び声が、まるで呪いのように彼の耳にこびりついて離れなかった。懇願にも似た涙声。彼の耳の中で、それは虚しく反響し続けた。


 その時、別の気配が、宗谷の背中に張り付いた。恐る恐る、彼は振り返った。


 霊、だった。いつの間にか、数え切れないほどの半透明な人々の姿が、廊下いっぱいに犇めいていた。頭から血を流している者、全身が血塗れの者、身体のどこかしらが千切れ、そこから内臓がはみ出ている者。男も女も、老人から幼稚園児ほどの子供までもが、惨たらしい姿を晒している。そして聴こえた。言葉にならぬ声。死にたくないと、消えたくないという叫び。


 だが、彼等は間もなく消える。自分が既に死んでいると知った時点で。その時になって彼等が感じる恐怖と絶望は、死の間際に感じたものと同等か、それ以上に違いないのではないか。


 宗谷は口許を押さえた。堪えきれない吐き気が、腹の底からこみ上げてくる。先程まで胸の中に詰まっていた鉛のようなものが急に溶け、胃の辺りで膨張しているかのように感じられた。


 霊達の叫びを振り切るかのように、宗谷は走り出し、病院を飛び出した。

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