疑念


 それから宗谷と睦月は、桜花に付き添った。病院の入り口まで彼女を見送り、二人はそのまま、遅れて学校へと登校した。病院と学校には桜花の言い訳通り、通学途中だった彼女が、抉れた地面に躓き、転んだ拍子に破片で太股を切ってしまい、そこへ彼女と同じく通学途中だった、自分達が通り掛かったのだと説明した。壊れたガードレールや抉れた地面については知らないと、最初からそうであったと、シラを切った。折しも、最近あの辺りは不審者による器物損壊事件が相次いでいたらしく、そもそも、たかが学生が短時間の間にあれほどの破壊を行うことなどできるわけが無いということもあり、これといって何かを疑われることは無かった。


 だが、病院や学校へはその説明で済んでも、途中からとは言え、その場に居合わせていた睦月には通用しなかった。やはり桜花の言い訳には無理があったし、自分があの場で何も言わなかったのは、例え説明のしようが無かったのだとしても、失敗だった、と宗谷は思った。


 授業中や休み時間中、睦月はずっと、ちらちらと宗谷の方を盗み見ていた。面と向かって口にこそ出さないが、何かしら宗谷のことを怪しんでいるのは明白だった。


 しかし、宗谷はそれどころではなかった。自分達を襲ったあの触手のことを、ずっと考えていたから。あの触手はなんだったのか。自分には霊が視える。だからあれも、霊の一種なのか。もしや悪霊の類なのだろうか。だが彼には何も解らない。答えを導き出すことなどできない。


 その日の放課後、宗谷は早速、桜花の入院している病院を訪れた。お見舞いもかねて、桜花から、あらためて朝のことを訊きたかった。何が視えたのか、何が視えなかったのか。


 受付で教えてもらった部屋番号を頼りに、病室の扉を開けると、ベッドで横になっている桜花の姿が眼に入った。桜花は宗谷が入ってきたことに気付くと、まるで朝の出来事など何もなかったかのような微笑みを浮かべ軽く手を振ったが、その姿に宗谷はどこか痛々しさを感じた。


「全治一ヶ月だって。なんでも、骨まで折れてたらしいの」


 困ったような顔をしてはいたが、桜花はつとめて明るく振る舞っていた。声にも普段と変わらぬ張りがある。怪我をする直前の、あの脅えは微塵も感じられず、彼はひとまず安心した。


 ふと宗谷は、ベッドの横に誰かが佇んでいることに気付いた。先客がいたのだ。先客はカーテンに隠れており、彼の立っている場所からは見えなかった。宗谷は、先客の影を見つめた。


「それじゃ、今里さん」


 先客は控えめに言うと、ゆらりと動き、カーテンの影から姿をあらわした。それは睦月だった。睦月は宗谷の姿を認めると、はっと息を呑み、その一瞬、躊躇いがちに眼を伏せた。


「なんだ、睦月。来てたのか」


「まあな」睦月の返答は、素っ気なかった。


「もう、帰るのか?」


「ちょっと、用事があるんだ」


 睦月は苛立っている、と宗谷は思った。だが、なぜだろう。普段、あれほど冷静な睦月が、何をそんなに苛立っているのか。なぜ、これほど素っ気ない態度なのか。やはり、自分のことを、何かがあると疑ってでもいるのだろうか。


 考える間もなく、睦月は宗谷と擦れ違い、そのまま病室をあとにした。


「池田くん、様子が変だったね。やっぱり朝のことを怪しんでるのかな」


 桜花がベッドに横になったまま、肩を竦めて見せた。


「そうかもしれない」と宗谷は応え「でも、他に説明のしようが無いから」


「だよね。いきなり地面が割れて、何が何だか解らないうちに、あたしの足が切れちゃいました。なんて、そんな言い訳が通用するわけがないものね」


 やはり、桜花には黒い触手の姿は見えていなかった。黒い触手も霊と同様、宗谷にしか認識することができないのだ。とすると、触手が自分を襲ったのも、偶然では無いのかもしれない。


「御影くんはどう思う? なんで地面が割れたのか、あたしが怪我をしたのか。その原因が」


 宗谷には解っていた。彼には、見ることができたのだから。ずっと見ていたのだから。だが宗谷は、桜花の問いには答えず、押し黙っていた。


 彼には、説明することができなかったから。なぜ、自分だけが死んだ人間の霊や、黒い触手の姿を見ることができるようになったのか。あの触手が何であるのか。触手が自分達の前にあらわれ、自分を狙った理由が何なのか。視えていただけで、自分でも訳が解らなかったから。


 無言のまま宗谷は、包帯とギブスにくるまれた桜花の左足へ視線を落とした。


「こんなこと有り得ないよ。有り得ないことなのに。それなのに、あたしの足は裂けた。いや、違う。裂けたんじゃないよ。今から思い出してみると、あれは、何かに斬られたような――」


 そう言った桜花の顔に、翳りが見えた。


「そう、あの時に感じたのは、痛みだけじゃなかった。何か、ひんやりとしたものが背筋を伝っていた。それが、足に突き刺さったと思った瞬間、あたしの足は裂けたの」


 桜花の指先は震えていた。先程まで笑みを浮かべていた口許が、今はひきつっている。


「あれは一体、何だったんだろう。地面が割れたりしたのも、それのせいなのかな」


 黙り込んだまま突っ立っている宗谷を、縋るような目つきで桜花は見つめた。


「何だか、怖いよ。あたし、何か呪われてでもいるのかな――」


 平静を装ってはいたが、やはり桜花は酷く怯えているのだ。病室に入ったときに桜花が見せた微笑みに、どこか痛々しいものを感じたのは、その微笑みが、まるで作り笑いのようだったから。恐ろしい出来事を、必要以上に明るく振る舞うことで、何とか忘れようと必死になっているかのように、宗谷には思えてならなかったからだろう。不可解にも思えた彼女の明るさは、怯えの裏返しだったのだ。


 しかし、一度たがが外れてしまえば、もう抑えることはできない。それが今の今里桜花。怯え震え、不可解なものへの恐怖に、非力な少女は、いや誰であっても抗うことはできないから。


 宗谷は、自分が見てしまった事を言わなくて正解だったと思った。これ程に怯えている彼女に、死んだ人の霊や、黒い触手の話をしても、いたずらに彼女を混乱させるだけだろうから。


「なんで、あたし、こんな怪我をしなきゃいけないのかな。理由がわからない。意味がわからないよ。ほんと、もう、わけが解らないんだよ。御影くん。あたし、何だか怖いよ」


 涙声で呟くと桜花は俯き、胸元に手を当てた。不規則な吐息が漏れている。宗谷は何も言えなかった。怯え続ける桜花の背中をさすり、宥めることしかできなかった。

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