黒の触手

「きゃ! な、何――これ」


 桜花が抉れた地面に視線を移して、戸惑いの混じった声を発した。彼女も異変に気付いたのだろう。桜花は、宗谷に寄り添うと、彼の腕を握り締めた。見開かれた大きな瞳は、土埃を舞い上げているひび割れた地面を、じっと見つめている。


 抉れた地面だけは、桜花にもちゃんと見えている。つまり、これは幻では無いのだ。桜花の声を聞いて宗谷は確信した。同時に彼は疑問を抱いた。幻覚で無いなら、これは何なのだ、と。


 アスファルトの砕ける音が聞こえた。それは、異様なほどに不快な音だった。少なくとも宗谷には、単に地面の割れる音には聞こえなかった。湿った音だった。まるで、肉と骨とが大きな牙によって噛み砕かれるような、生々しく、血腥さを感じさせる音に聞こえた。


 不快な音が迫ってくる。地面のひび割れが、狙いを定めているかのように宗谷達へと近付いてくる。不意に、宗谷は悪寒を覚えた。それは、高層ビルの天辺から下を覗き込んだときの、ぞくりと背筋や足元が鳥肌立つような感覚に似ていた。真下に何かあると、彼は咄嗟に悟った。


 宗谷は即座に桜花を抱きかかえ、跳ぶようにその場から離れた。次の瞬間、地面が爆発音を轟かせて、破裂した。アスファルトの破片や土埃が、噴水のように上空へと弾き飛ばされた。


 破裂した地面から、黒い何かが伸びてくるのが見えた。宗谷は眼を凝らした。


 触手のようだった。その触手は、成人男性の腕程度の太さがあり、宗谷の身長の何倍にもなるであろう長さだった。色は真っ黒で、その黒は宗谷が今まで見たどの黒よりも、闇よりも鮮烈で深かった。黒々としているのに、眩しいという錯覚すら起こさせるほどの。


「これって、何? 何があったの? ガス管の爆発かなにか、なのかな?」


 桜花が宗谷の身体にしがみついたまま、震える声で呟いた。こっちが訊きたいくらいだと思いつつ、桜花の方を横目で見やる。桜花は、破裂した地面の辺りだけを怯えきった瞳で見つめていた。彼女には、黒い触手は見えていないのか。とすれば、この触手は霊の一種なのだろうか。雷鳴に似た轟音も、肉を噛み砕くような不快な音も、この触手が発していたのだろうか。


 触手は、ぬめぬめとした先端を地面に押しつけ、何かをまさぐっているかのように蠢いている。宗谷は、上下左右に蠕動する触手を眼で追いかけた。まるで獲物の臭いを嗅ぎ回る獣のようだった。見れば見るほどに、不快で危険な何かが、胸の奥底からこみ上げてくる。


 彼は触手の動きを警戒しつつ、この場から逃げようと身構えた。その時、触手の先端が、地面に散らばった砂や土と擦れて、濡れた砂利を踏みしめるような不気味な音を立てた。


 今にも泣き出しそうな声が聞こえる。桜花が、宗谷の顔を食い入るように見つめていた。


「御影くん、なんだか恐いよ――」


 急に、触手が動きを止めた。桜花の声が聞こえたのか、ゆらゆらと揺れつつ、その先端を宗谷達の方へと向ける。宗谷は逃げだそうと、桜花を抱きかかえる手に力を込めた。だが、彼の腕は空気を抱き寄せただけだった。桜花は放心した様子で、その場に腰を落としていた。


 触手が動いた。その動きは閃光のように素早く、とても眼では追えるものではなかった。触手の先端は、一直線に宗谷を狙っていた。彼は思わず眼を閉じた。


 触手の鋭い先端が、宗谷の胴体を貫かんとする、その寸前、彼は自分の身体に負荷が掛かるのを感じた。桜花だった。恐怖に耐えきれなくなった彼女が、宗谷の身体に被さるように抱きついてきたのだ。宗谷はバランスを崩し、その場に倒れた。その直後、眼前を触手の先端が掠めた。あと数秒でもバランスを崩すのが遅ければ、触手の先端は彼の身体を貫いていただろう。


 触手の狙いは外れた。だが、苦痛に満ちた悲鳴を宗谷は聞いた。突然、彼の視界が血飛沫の鮮やかな紅色に染まった。少女の声、いや今里桜花の声。彼は即座に桜花へと視線を動かした。


 桜花の太股から血が溢れていた。鮮血が止め処無く噴き出している。触手の先端は桜花の左太股の辺りを掠めていたのだ。血はみるみるヒビ割れた地面へ流れ、辺り一面を紅く濡らす。


 左太股を庇うようにして桜花は蹲った。彼女は、恐怖と痛みが入り混じったように顔を歪めている。夥しく出血している左太股は、ぱっくりと裂け、引きちぎられた筋肉の断面と、骨が覗いていた。宗谷が呼びかけると、桜花は少しだけ瞳を開き、掠れた声で呟いた。


「痛い、痛いよ――何なの、今の」


 またも轟音が響く。桜花の呟きは轟音に掻き消された。宗谷は耳を塞いで顔を上げ、黒い触手の方を咄嗟に見やった。


 しかし既に、そこには何も無かった。黒の触手は視界から拭ったかのように消えていた。忌まわしい黒は陰も形も無く、あるのは抉られて茶色い地肌を露出している地面と、飴細工のようにぐにゃぐにゃに歪んでしまったガードレールや道路標識、粉々に砕けたアスファルトの破片といった残骸だけ。それらは、まるで肉食獣に喰い貪られた草食動物の死骸のように、そこかしこに無惨に散らばっていた。


「宗谷、お前。一体何を――いや、何があったんだ」


 背後から声が聞こえた。振り返ると、池田睦月が蒼白な面持ちで宗谷を見据えていた。宗谷と目が合うと、それを避けるかのように宗谷の傍らに横たわっている桜花へと視線を移す。足を怪我し、夥しく出血している桜花の様子を目の当たりにし、睦月の頬はひきつっていた。


「どうして、今里さんが怪我をしてるんだ」


 睦月は問いつめる。だが宗谷には説明のしようが無い。答えあぐねていると、不意に自分に向けられている視線を彼は感じた。睦月のものとは違う、敵意にも似た射るように鋭い視線。


 宗谷は顔を動かし、視線を感じた辺りを、道の奥にある曲がり角の付近へと振り向いた。


 人影が見えた。宗谷が思っていたよりも、ずっと小さな人影。まるで、子供のようだった。小柄な人影は、曲がり角の影に身を隠すようにして、宗谷の方をじっと見つめていた。


 突然、人影はびくりと身体を震わせる。存在を悟られたことに気付いたのか。動いた反動で、水色の髪がこぼれて靡く。女の髪。いや、女の子の髪のようだった。だが、考える間もなく、人影は慌てたようにその場を立ち去っていた。同時に、宗谷の感じていた視線や気配は失せた。


「お前、どこを見てるんだよ」


 睦月はつとめて冷静に、しかし僅かに怒気を含んだ声で訊いた。

「今里さんに何が――」


「池田くん、大丈夫。大丈夫――だから」


 桜花が苦しげに睦月の方へ目をやっていた。痛みのせいか、喘ぐような喋り方だった。


「ちょっと躓いて、転んじゃっただけだから」


「今里さん、何を言って――」


 宗谷の言葉を制するように、桜花は続けた。

「御影くんは、転んで怪我をしたあたしを、助けようとしてくれただけだから」


「とにかく救急車を呼ばないと。この怪我だと、へたに動かせない」


 睦月は訝しげに、宗谷と桜花を交互に眺めた。だが、まずは怪我人の手当てが先であると、スマートフォンを取りだし、救急車を呼んだ。

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