白の少女


 それは女の子だった。年齢は、小学校の高学年くらいだろうか。所々に模様のある白いパジャマを身に纏っている。肌は舞い落ちてくる雪のように白く、肩まで伸びた薄いグレーの髪や着ている白のパジャマのせいもあり、まるで天使のような、純白で神秘的なものを感じさせた。


 女の子は横たわったまま、大きく見開いた瞳で、呆然と立っている宗谷の姿を見据えていた。


 宗谷は戸惑った。なぜこんな所に女の子がいるのか。そう思いつつも、彼女へ話しかける。


「君、こんな所で、何をして――」


 そこまで言うと、彼は言葉を失った。彼女の身体に隠れて見えないはずのごみが、身体を透けて僅かに見えていることに気付いたから。よくよく見れば、ゆっくりと降ってくる雪の結晶もまた、女の子の身体をすり抜け、地面へと落ちていたから。


 女の子の身体は半透明だった。いや、女の子の存在そのものが、透明だったのだ。


 女の子自身の姿も、冷静に見つめれば普通ではなかった。グレーの髪は、きめ細やかで美しかったが、その根本の辺りは赤い血に染まっていた。後頭部は血に濡れて、パジャマについている模様は、そこから飛び散った鮮血が滲み、黒く変色して模様のように見えていたのだ。


 この子も、そうなのか。


 心の奥で呟き、不意に肩から力が抜けていくのを宗谷は感じた。半透明な女の子の姿を食い入るように見つめながら、彼は理解したから。この子は、もう死んでしまっているのだと。今、目の前にいるのは、女の子の霊であるのだと。そしてやはり、自分は”霊の姿を視る”ことのできる眼を、”霊の声を聴く”ことのできる耳を持つ、身体になってしまったのだと。


 女の子は、宗谷の言葉には応えず、子供とは思えないほどに端整で大人びた顔を、僅かながら、怯えたように動かしただけだった。宗谷を見つめ続ける物憂げな瞳は、涙で潤んでいる。頬には、涙が伝ったと思しき跡が見てとれた。この女の子は、何か哀しい想いを抱いたまま、命を散らしたのだろうか。だから、こんなにも哀しい瞳をして、何も云わず、じっと自分を見つめ続けているのだろうか。


 女の子の瞳から、涙がこぼれ落ちた。と同時に、女の子の半透明な身体の輪郭が、ぼんやりとした白い光を帯びた。それは、宗谷をこの場所へと誘った光に違いなかった。女の子から溢れる哀しみが、霊の見える身体となった宗谷にとっては、白い光として認識されるのだろうか。


 無言で、じっと見つめられ、宗谷は息を呑んだ。その時突然、彼女の動きが止まった。小刻みに震わせていた指先や表情が、物憂げな瞳すら、凍り付いてしまったように停止した。


 彼は、女の子の様子を伺った。その眼は底のない、深く暗い色をしていた。涙に潤んだ円らな瞳が、まるで死んだ魚の眼のような、濁ったものへと変化していた。


 宗谷は、どうしたのかと女の子へと問いかけた。だが、やはり女の子は応えなかった。死んだ魚のような目を、濁り茫洋とした瞳を、ただ宗谷へ向けているだけ。思わず彼は後ずさった。


 不意に宗谷の胸の中に、黒々とした何かが芽生え、意識を覆った。彼女の異様な変貌に対する恐怖にも似た感情。我に返ると、彼は走っていた。女の子に背を向け、逃げ出すかのように。


   ●●


 あれから――霊の存在を知覚できる身体になってから、一週間が過ぎようとしていた。


 もう一週間近く経つのかと、駅から学校へ向かう途中に宗谷は考えていた。あの日から、宗谷は六人の霊と出会った。いや、出会ったと言うべきではない。それらは、宗谷が声を掛ける間もなく、見かけたそばから消えてしまったのだから。宗谷の言葉に反応を示すことができたのは、学校にいた少年と、その日の夜に出会った白いパジャマの女の子。その二人だけだった。


 そういえば、と宗谷は、白いパジャマを着た女の子の霊のことを思い出す。あの時は思わず逃げ出してしまったけれど、今もまだ、あの場所でずっと横たわっているのだろうか。


 まさか、と思う。あの子も他の霊と同じように、すぐに消えてしまっているに違いない。だが、それはそれで宗谷の胸は針で刺されたように僅かに痛むのだった。じっと黙り込んだまま、こちらを捉えて離さなかった、あの視線が思い出されるから。涙で潤んだ瞳。怯えてでもいるかのように凍りついた表情。あの女の子は、そういった哀しみを抱いたまま消えてしまったのだろうか。宗谷以外の誰にも、両親にも友達にも知られることなく、孤独なままで。


「おはよう、御影くん。最近、調子どうかな」


 背後から少女の声が聞こえ、宗谷は唐突に肩を叩かれた。驚きながらも宗谷は、咄嗟に声のする方を見やった。視線の先に立っていたのは今里桜花だった。彼女は明るく柔和な顔つきで、しかし僅かばかり心配そうに宗谷の顔を見つめている。挨拶を返し、彼は曖昧に頷いて見せた。


「心配かけて、ごめん。もう大丈夫だから」


 死んだ人の霊が視えるのにも、声が聴こえるのにも、少しは馴れてきたから。と、宗谷は頭の中で続けたが、言葉にはならなかった。何故なら、今の自分の状態をいくら説明しても、たとえそれが全く異議を挟む余地のない、説得力溢れる言葉でなされたとしても、殆どの人には、いや自分自身にすら、ちゃんと理解など、ましてや信じることなど、できないだろうから。そして何故だか宗谷は、自身の特異な能力を口にすることに本能的な抵抗を感じてもいたから。


「それなら、良かったよ」


 宗谷の胸の内を、その苦しみを知るはずもなく、桜花は表情を綻ばせる。ただでさえ幼げな顔が、まるで中学生か小学生かと見紛うほどに、無邪気さを帯びた。


「先週辺りから御影くん、様子が変だったでしょう? だから、ずっと心配してたんだよ。まあでも、その様子だったら、ある程度、頭の痛い問題は解決したみたいだね」


 桜花はそう言うが、肝心な問題はまだ何一つ解決してはいなかった。だが、宗谷は悪い気持ちではなかった。むしろ桜花の明るい声を聞いて、僅かながらも気が紛れた。


「ところで――」

 と、それまでの明るい調子から一転、桜花は控えめな口調で訊いた。上目遣いに、宗谷の様子を伺っている。


「どうしたの?」

 歩きながら、宗谷は小首を傾げる。


「一体、何があったのか、訊いてもいいかな? この前は、バイト疲れって言ってたけど、本当にそれだけ? 今はまだ、大丈夫そうだけどさ。やっぱり、あの時は普通じゃなかったよ」


 宗谷は返答に窮した。本当のことを言うつもりは無かった。到底、理解してもらえるとは思えなかったし、いたずらに彼女を混乱させたくは無かった。かといって、これ程に心配してくれている桜花に、何も言わないままでいるのも、嘘をつくのも気が引けた。


「別に何もないよ。そんな、たいした事じゃない」

 宗谷は、はぐらかすように答えた。


「たいした事じゃない、って――」


 桜花は納得していないようだった。円らな瞳を訝しげに細める。


「あんなに様子がおかしかったのに、そんなわけないでしょう。まあ別に、言いたくないことなら、他人に言えないことなら、それでもいいけどさ」


 そう言いながらも、桜花は横目で、宗谷を見つめ続けていた。まるで、知りたくて堪らないと言わんばかりに、少しの隙も綻びも見逃すまいと、眼を光らせている。


 やれやれ、と宗谷は思った。だが、言うべき言葉は見つからず、彼は押し黙った。


「あのさ、御影くん」


 束の間の沈黙を避けるように、桜花は話を続けた。顔を上げ、まっすぐに宗谷を見つめて。


「あたしで良かったら、相談に乗ってあげられると思うんだけど――」


 桜花がそこまで言いかけた、その時だった。宗谷の耳に轟音が響いた。間近に雷でも落ちたかのような耳を劈く物凄い音。どやしつけられたように彼は顔を上げ、思わず辺りを見回した。


「ねえ、ちょっと。聞いてる? 御影くん」


 桜花が小首を傾げながらも、半ば怒ったように話しかけてくる。彼女には、先程の轟音は聞こえていないようだった。雷鳴に似た轟音は、自分にだけ聞こえた。とすればこの音は”霊”と何か関係があるのだろうか。宗谷は考えながら、どこから音が聞こえて来たのかを探った。


 再び、轟音が響いた。そして、地面が抉れた。地面を覆い尽くしているアスファルトが、まるで剥かれた蜜柑の皮のように、いとも簡単に捲れあがった。硬い物の擦れるような倍音が響き、露わになった茶色の地肌からは、土埃と砕けたアスファルトの破片とが舞い上がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る