忘れられた場所


「さっき、今里さんと何を話してたんだ?」


 桜花が宗谷のもとを立ち去ってから暫くして、友人の池田睦月が話しかけてきた。宗谷は、椅子に腰を落としたまま呆然としていたが、睦月の声に我に返ると、友人へと向き直った。


 睦月は、椅子に手を掛けて宗谷を見下ろしていた。白く照り光る眼鏡の奥に、いかにも異性を惹きつけそうな切れ長の、それでいて涼しげな瞳が覗く。


「別に、たいしたことは話してないよ。ちょっと調子が悪かったから、心配してくれたんだ」


 睦月は頷き、宗谷の顔を仔細に見つめた。

「確かに朝から様子が変だ。今も顔色が悪いな」


「ちょっと疲れてるだけだよ。心配させて悪いな」


「あまりストレスを溜めないほうがいいな。今の宗谷の顔色や表情を見ていたら、自殺でもしやしないかと、本当に心配になってくるから。ああ、そういえば――」


 そこまで言うと睦月は腰を屈めた。辺りを憚るように見渡しつつ、宗谷の耳元へ囁く。


「この学校、俺達が入学する前に自殺者がでたことがあるらしいからな」


「自殺者?」

 思わず腰を上げ、宗谷は狼狽えたように聞き返す。かつてこの学校で自殺者が出ていた。初耳だった。だがそれ以上に、宗谷は別のことに、自身のとある想像に戦慄していた。


 そんなに大きな声を出すなよと眉を潜めつつ、睦月は言葉を続けた。


「先輩から聞いただけで詳しくは知らないが、なんでも受験のストレスが原因らしいな。校舎の屋上から、“もう我慢できない。俺を自由にしてくれ”って叫びながら飛び降りたそうだ」


 睦月と話を終えて別れてからも、ずっと宗谷は立ち尽くしていた。痛いほどに鮮やかなオレンジ色の夕日が窓から射し込み、宗谷は眩しさを覚えた。だが彼は身じろぐことすらできず、誰もいない教室の中で、茫洋とした瞳を泳がせることしかできなかった。


――その人は線路の上に飛び降りた後で、いきなり死にたくないって叫びだしたらしいの。


――もう我慢できない、俺を自由にしてくれ、って叫びながら飛び降りたそうだ。


 桜花と睦月から聞いた話が、否が応でも繰り返し思い出された。人が死んだ話。人が死ぬ直前に発した叫びの話。それは彼が見た不可解なもの、“そのもの”に違いなかったから。


「もしかして、僕は――」


 信じがたい想像が脳裏を駆け巡る。彼は首を振る。そして口を開く。


 だが震える呟きは、もはや声にすらならず、ただ重く沈んだ静寂に飲み込まれるだけだった。


 ●●


 この街は、いつも慌ただしい。歩いているだけでも疲れてくるな、と宗谷は独り言ちた。


 街の中心に位置するこの大通りは、常に人と車と騒音に溢れていた。既に日は落ち、空は星一つ輝かぬ黒々とした闇に染まっている。道沿いに並ぶ外灯やネオン看板から放たれる光が、闇に浸食されるのを拒んでいるかのように街を照らし、その反面、過剰ともいえる明かりは、雑然とした街の澱みと混沌を細部に至るまで照らし出し、より一層、際立たせてもいた。


 宗谷はバイトから帰る途中で、小走りに駅へと向かっているところだった。本当はバイトへ行けるような気分ではなかった。しかし、宗谷は親元を離れての独り暮らしで経済的な余裕はあまり無く、休む訳にはいかなかったのだ。 


 人混みの中、誰とも接触しないよう注意を払いつつ歩きながら、宗谷は大通りの様子を横目でちらりと見やった。白いものが一つ、二つと、ゆっくり舞い降りてくるのが目についた。


 雪が降り始めていた。まだ水気を多く含んだ雪で、宗谷の額や頬に触れると、すぐに溶けて雫へと変わる。宗谷は二の腕で雫を拭った。ひんやりとした感触が顔に広がり、風が余計に冷たく感じられる。まるで氷の粒子が、皮膚に軽く突き刺さってでもいるかのようだった。


 宗谷はごった返している人々の間を抜け、脇道へと逸れた。いつも宗谷が通っている駅への近道で、バイト先から何回か帰るうち、偶然に発見した経路だった。


 脇道を抜けると人気のない路地裏に出る。賑やかな街の中で、ここだけは別の次元から切り取られてきたかのような静寂に包まれていた。あまり知られていない場所なのか、宗谷は何度かここを通ったが、人と出会ったことは疎か、気配を感じたことさえ一度として無かった。


 よく見れば、幽霊でも出てきそうな場所だな。と、そこまで心の中で呟いてから、宗谷は足を止め舌打ちした。彼は後悔した。なぜ今日に限って、こんな道を選んでしまったのだろうと。すぐ家に帰りたかったからといって、安易にこんな道を選ぶべきではなかったな、と。


 宗谷は背筋が冷たくなっていくのを感じつつ、辺りを見回した。彼は特別に臆病で怖がりというわけではなかったが、不可解な体験をしたばかりとあっては、慎重にならざるを得なかった。風の音が、人の叫び声に聞こえなくもない。静かに降り続ける雪が、人魂に見えなくもない。宗谷は震えそうになる唇を噛みしめた。


 暫くの間、無言で歩き続けると、宗谷は遠くに僅かな光が揺れているのを見つけた。今にも消えてしまいそうな、淡い白色の光だった。彼の記憶では、あの辺りが出口だった筈だ。やっと、この薄気味悪い路地裏を抜けることができるな、と宗谷は胸を撫で下ろし、歩調を早めた。


 しかし、そこは路地裏の出口などでは無かった。街の喧噪も眩い明かりも、まだ無かった。先程、彼が歩いていた路地裏よりも、さらに静まり帰っており、まるで空間そのものが凍りついているかのように感じられた。あるのは堆く積まれたごみ袋と、薄汚れたポリバケツだけ。まるで、ごみ捨て場のようだったが、長い間、人の手が入った様子は無い。袋の中のゴミは朽ち果て、もはや元が何だったのか判らぬ程に形を失い、臭いも無く、虻や蝿すら集っていない。


 忘れられた場所か、と不意に宗谷は思った。そこまで考えて、初めて彼は道を間違えた事に気付いた。誘われるように歩いてきてしまったが、こんな場所に来るのは初めてだ。そうだ、と彼は悟った。白い光だ。あれに誘われてしまったのだ。宗谷は顔を上げ、白い光を探した。


 それに誘われてきたにも関わらず、白い光らしきものは見当たらなかった。だが、代わりに彼は、別の白を見た。その“白”は、ごみの山に打ち捨てられたかのように横たわっていた。

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